未完成の設問やら解答やらを載せてみることにした。
作問者がどんな手順・思考・手触りで問題を作っているかを知る一助になれば幸いである。また設問や解答を完成させることができればかなりの力がついていくだろう。そして、別の設問、解答を作ってくださった方がいたとしたら、私は非常に喜ぶだろう。
次の文章を読んであれこれと考えなさい。
『態度が悪くてすみません』
119頁より
「知性が起動する瞬間」
私の所属する学科で、は卒業論文の中からすぐれたものを選んで「優秀論文集」を編み、学生に配布するということを数年前から実施している。がんばった学生を顕彰するためでもあるし、学術論文の書き方のお手本をこれから卒論を書く学生に示す教化的ねらいもある。
同僚のゼミの指導員が選んでくれたその論文数編を一日かけて読んだ。
不思議な印象が残った。
それは手触りが「やさしい」ということである。文章について「手触り」という言い方をするのも妙だけれど、そうとしか言いようがない。
これまでの「優秀論文」はどちらかというとかちっと書かれたものが多かった。印象的な形容ばかりで申し訳ないが、「かちっと」というのは、「定型を守っている」ということだけでなく、「文章に圭角(けいかく)がある」ということであり、それは既存の「理説」や「政治的正しさ」に依拠して分析対象をばっさりと一刀両断するような語り方を採用しているということでもある。その風儀がずいぶん希薄化したように思われる。大所高所から一刀両断するような文章は少なく、書いている学生の息づかいや体温のようなものがにじみ出した文章が続く。
読んでいるうちに、いくつかの論文で兆候な文型が繰り返し現れることに気がついた。それは「……という主張……という主張があるが、私にはどちらとも言い切れない」というものである。
こういう文章を読むと、私はほっとする。
「私にはわからない」という判断留保は知性が主体の内側に切り込んでゆくときの起点である。「なぜ、私はこのクリアカットな議論に心から同意することができないのか」という自問からしか「まだ誰もことばにしたことのない思考」にたどりつくことはないからである。
知性がまさに起動しようとしている瞬間に立ち会うとき、教師というのはいい仕事だなと思う。
以下はすべて未完成の設問、解答らである。参考にしなさい。
(解答例A)
今までの「政治的正しさ」や・・・に依拠しないでやさしい判断保留をするのは新しい知性の起動瞬間だから。
(設問例と解答例B)
設問 「やさしい」に価値を見出しているのはなぜか。
一刀両断だと知性の起動する瞬間ではないから。
(設問例と解答例C)
設問 「不思議な印象」とはどんな感覚か。
本来、論文は・・・