国語屋稼業の戯言

国語の記事、多数あり。国語屋を営むこと三〇余年。趣味記事(手品)多し。

俳句と手品についての雑考・雑記

2019-11-02 17:00:00 | マジック
●俳句と奇術は無縁ではない。奇術を扱ったいくつかの名句も残されている。

 さらに手品を扱った句だと、個人的に好きな句がある。

   スペードをハートに手品年始まる 山口青邨

 こんな句を読むと、来年の正月はスペードをハートに変える手品をしたくなる。

●早くも余談を言えば、有名な詩人、萩原朔太郎も手品を愛した人である。

 このあたりは栗原飛宇馬氏の『手品と萩原朔太郎』に詳しいが、先にリンクした部分はYahoo!ブログなので近々読めなくなるやも。

 栗原氏は学会で「従来の朔太郎研究で『ただの趣味』扱いされてきた手品の意味の再評価を試みた。氏は、朔太郎が愛好した手品の構造が、彼にとっての神秘的体験の構造とパラレルであると論じる。手品には種と仕掛けがあることがわかっている。にもかかわらず、その驚異と楽しさはリアルだ。『猫町』などに見られる、神秘体験も同様だ。それは幻覚や錯覚に過ぎないと自覚される。にもかかわらず、否定し得ない経験の記憶がリアルに残る。これは敷衍して言えば、朔太郎における『経験の実在性の構造』であろう。」とも述べており、そう考えれば詩人と手品の相性は意外と良いのかもしれない。

●閑話休題。

●俳句と手品の話題である。

 『まんぼうイズム for ブサイクマジシャンズ2』でまんぼう氏が俳句を趣味としたマジシャンについて述べていらっしゃり、それを視聴して以来、(真に受けて)俳句を趣味としているマジシャンについて考えることがしばしばあった。

 まあ、まんぼう氏が俳句をあげていらしゃった理由はわからないが、近くに俳句を嗜んでいらっしゃるマジシャンがいるのやもしれない。

 直接、まんぼう氏に理由をたずねたいところだが、遠いし、体力がない。

 残念。

●ここで「ホトトギス」名誉主宰でいらっしゃる稲畑汀子さまによる中学生へのアドバイス「俳句の作り方 十のないないづくし」を『NHK俳句 2019年10月号』より引用してみる。

 意外と手品との関連は高いのではないか。

一、上手に作ろうとしない。
二、難しい表現をしない。
三、言いたいことを全部言わない。
四、季題を重ねない。
五、言葉に酔わない。
六、人まねをしない。
七、切れ字を重ねない。
八、作りっ放しはいけない。
九、頭の中で作りあげない。
十、一面からのみ物を見ない。


 いくつはどんぴしゃで手品にもあてはまる。

 俳句独特ともいえる「四、季題を重ねない。」にしても同じようなマジックの連続は避けるようにと言えるし、「七.切れ字を重ねない」というのは中心を複数つくらない、かつ中心以外の部分は中心を意識するようにしなくてはいけないと、とするなら手品でも同様のことが言える。

●また、俳句の祖先である「俳諧」には、「滑稽」「戯れ」「機知」「諧謔(かいぎゃく)」等の意味が含まれる(by Wikipedia)し、さらに、それらは現代俳句でいう「何とも言えないおかしみ」という誉め言葉(ときに皮肉もあるが)に通じているものであろう。


 そして「滑稽」「戯れ」「機知」「諧謔」の含まれた手品の演技は重要で、私は「何とも言えないおかしみ」を持ったマジシャンになりたい。

 私の好きなマジシャンたちも、みな「滑稽」「戯れ」「機知」「諧謔」「何とも言えないおかしみ」を持っていらっしゃる。

 直接演技を見たマジシャンで言うと、カズ・カタヤマ氏、黒田文彦氏、南部信昭氏、野島伸幸氏、ふじいあきら氏、前田知洋氏、ゆうきとも師(以上、50音順)などは、個性的なマジックをする上にそれぞれ「俳諧」精神の持ち主であった。

 と似非俳人は思うのである。

 それにしても先にあげた方々の演技を再び見る機会は来るのかしらん。

 ※野島氏の名前を間違えておりました。今は訂正しています。

●だらだらと愚考したうえに乱文たが、「俳句と奇術(手品でもマジックでも良いのだけれど)」について、きちんとした論考って書けそうだよね。

 
 




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