次の文章は「現代日本の開化」と題する講演の一節である。これを読んで後の問いに答えよ。
①私は昨晩和歌の浦へ泊まりましたが、和歌の浦へ行って見ると、さがり松だの権現様だの紀三井寺だのいろいろのものがありますが、その中に東洋第一海抜二百尺と書いたエレベーターが宿の裏から小高い石山の頂へ絶えず見物を上げたり下げたりしているのを見ました。実は私も動物園の熊のようにあの鉄の格子の檻(おり)の中に入って山の上へ上げられた一人であります。があれは生活上別段必要のある場所にあるわけでもなければまたそれほど大切な器械でもない、まあ物好きである。ただ上がったり下がったりするだけである。疑いもなく道楽心の発現で、好奇心兼広告欲も手伝っているかも知れないが、まあ活計(くらし)向きとは関係の少ないものです。これは一例ですが開化が進むにつれてこういう贅沢(ぜいたく)なものの数が殖えてくるのは誰でも認識しないわけに行かないでしょう。しかのみならずこの贅沢が日に増し細かくなる。大きなものの中に輪が幾つも出来て漏斗(じょうご)みたようにだんだん深くなる。と同時に今まで気の付かなかった方面へだんだん発展して範囲が年々広くなる。
②要するに唯今(ただいま)申し上げた二つの入り乱れたる経路、すなわち出来るだけ労力を節約したいという願望から出てくる種々の発明とか器械力とかいう方面と、できるだけ気儘(きまま)に勢力を費やしたいという娯楽の方面、これが経となり緯となり千変万化錯綜(さくそう)して現今のように混乱した開化という不可思議な現象が出来るのであります。
③そこでそういうものを開化とすると、ここに一種妙なパラドックスとでもいいましょうか、ちょっと聞くと可笑(おか)しいが、実は誰しも認めなければならない現象が起こります。元来なぜ人間が開化の流れに沿うて、以上二種の活力を発現しつつ今日に及んだとかいえば生まれながらそういう傾向をもっていると答えるより外に仕方がない。これを逆に申せば吾人(ごじん)の今日あるは全くこの本来の傾向あるがために外ならんのであります。なお進んでいうと元の儘(まま)で懐手(ふところで)をしていては生存上どうしても遣(や)り切れぬから、それからそれへと順々に押され押されてかく発展を遂げたと言わなければならないのです。してみれば古来何千年の労力と歳月を挙げてようやくの事現代の位置まで進んできたのであるからして、いやしくもこの二種類の活力が上代から今に至る長い時間に工夫し得た結果として昔よりも生活が楽になっていなければならないはずであります。
④けれども実際はどうか。打ち明けて申せばお互いの生活ははなはだ苦しい。昔の人に対して一歩も譲らざる苦痛の下に生活しているのだという自覚がお互いにある。否(いな)開化が進めば進むほど競争がますます劇(はげ)しくなって生活はいよいよ困難になるような気がする。なるほど以上二種の活力の猛烈な奮闘で開化はかち得たに相違ない。しかしこの開化は一般に生活の程度が高くなったという意味で、生存の苦痛が比較的柔らげられたというわけではありません。ちょうど小学校の生徒が学問の競争で苦しいのと、大学の学生が学問の競争で苦しいのと、その程度は違うが、比例に至って同じことであるごとく、昔の人間と今の人間がどのくらい幸福の程度において違っているかといえば――あるいは不幸の程度において違っているかといえば――活力消耗活力節約の両工夫において大差はあるかも知れないが、生存競争から生ずる不安や努力に至っては決して昔より楽になっていない。否昔よりかえって苦しくなっているかもしれない。
⑤昔は死ぬか生きるかのために争ったものである。それだけの努力を敢(あ)えてしなければ死んでしまう。已(や)むを得ないからやる。しかのみならず道楽の念はとにかく道楽の途(みち)はまだ開けていなかったから、こうしたい、ああしたいという方角も程度も至って微弱なもので、たまに足を伸ばしたり手を休めたりして、満足していたくらいのものだろうと思われる。今日は死ぬか生きるかの問題は大分超越している。それが変化してむしろ生きるか生きるかという競争になってしまったのであります。生きるか生きるかというのは可笑(おか)しゅうございますが、Aの状態で生きるかBの状態で生きるかの問題に腐心しなければならないという意味であります。
⑥活力節減の方で例を引いてお話をしますと、人力車を挽(ひ)いて渡世にするか、または自動車のハンドルを握って暮らすかの競争になったのであります。どっちを家業にしたって命に別条はないにきまっているが、どっちへ行っても労力は同じだとはいわれません。人力車を挽くほうが汗がよほど多分に出るでしょう。自動車の御者になってお客を乗せれば――もっとも自動車をもつくらいならお客を乗せる必要もないが――短い時間で長い所が走れる。糞力(くそぢから)はちっとも出さないで済む。活力節約の結果楽に仕事が出来る。されば自動車のない昔はいざ知らず、いやしくも発明される以上人力車は自動車に負けなければならない。負ければ追い付かなければならない。というわけで、少しでも労力を節減し得て優勢なるものが地平線上に現われてここに一つの波瀾(はらん)を誘うと、ちょうど一種の低気圧と同じ現象が開化の中に起こって、各部の比例がとれ平均が回復されるまでは動揺して已められないのが人間の本来であります。
――夏目漱石「現代日本の開化」
問 上記の文章の要旨をまとめよ(二〇〇字以内)。 (一橋大 2000)
①私は昨晩和歌の浦へ泊まりましたが、和歌の浦へ行って見ると、さがり松だの権現様だの紀三井寺だのいろいろのものがありますが、その中に東洋第一海抜二百尺と書いたエレベーターが宿の裏から小高い石山の頂へ絶えず見物を上げたり下げたりしているのを見ました。実は私も動物園の熊のようにあの鉄の格子の檻(おり)の中に入って山の上へ上げられた一人であります。があれは生活上別段必要のある場所にあるわけでもなければまたそれほど大切な器械でもない、まあ物好きである。ただ上がったり下がったりするだけである。疑いもなく道楽心の発現で、好奇心兼広告欲も手伝っているかも知れないが、まあ活計(くらし)向きとは関係の少ないものです。これは一例ですが開化が進むにつれてこういう贅沢(ぜいたく)なものの数が殖えてくるのは誰でも認識しないわけに行かないでしょう。しかのみならずこの贅沢が日に増し細かくなる。大きなものの中に輪が幾つも出来て漏斗(じょうご)みたようにだんだん深くなる。と同時に今まで気の付かなかった方面へだんだん発展して範囲が年々広くなる。
②要するに唯今(ただいま)申し上げた二つの入り乱れたる経路、すなわち出来るだけ労力を節約したいという願望から出てくる種々の発明とか器械力とかいう方面と、できるだけ気儘(きまま)に勢力を費やしたいという娯楽の方面、これが経となり緯となり千変万化錯綜(さくそう)して現今のように混乱した開化という不可思議な現象が出来るのであります。
③そこでそういうものを開化とすると、ここに一種妙なパラドックスとでもいいましょうか、ちょっと聞くと可笑(おか)しいが、実は誰しも認めなければならない現象が起こります。元来なぜ人間が開化の流れに沿うて、以上二種の活力を発現しつつ今日に及んだとかいえば生まれながらそういう傾向をもっていると答えるより外に仕方がない。これを逆に申せば吾人(ごじん)の今日あるは全くこの本来の傾向あるがために外ならんのであります。なお進んでいうと元の儘(まま)で懐手(ふところで)をしていては生存上どうしても遣(や)り切れぬから、それからそれへと順々に押され押されてかく発展を遂げたと言わなければならないのです。してみれば古来何千年の労力と歳月を挙げてようやくの事現代の位置まで進んできたのであるからして、いやしくもこの二種類の活力が上代から今に至る長い時間に工夫し得た結果として昔よりも生活が楽になっていなければならないはずであります。
④けれども実際はどうか。打ち明けて申せばお互いの生活ははなはだ苦しい。昔の人に対して一歩も譲らざる苦痛の下に生活しているのだという自覚がお互いにある。否(いな)開化が進めば進むほど競争がますます劇(はげ)しくなって生活はいよいよ困難になるような気がする。なるほど以上二種の活力の猛烈な奮闘で開化はかち得たに相違ない。しかしこの開化は一般に生活の程度が高くなったという意味で、生存の苦痛が比較的柔らげられたというわけではありません。ちょうど小学校の生徒が学問の競争で苦しいのと、大学の学生が学問の競争で苦しいのと、その程度は違うが、比例に至って同じことであるごとく、昔の人間と今の人間がどのくらい幸福の程度において違っているかといえば――あるいは不幸の程度において違っているかといえば――活力消耗活力節約の両工夫において大差はあるかも知れないが、生存競争から生ずる不安や努力に至っては決して昔より楽になっていない。否昔よりかえって苦しくなっているかもしれない。
⑤昔は死ぬか生きるかのために争ったものである。それだけの努力を敢(あ)えてしなければ死んでしまう。已(や)むを得ないからやる。しかのみならず道楽の念はとにかく道楽の途(みち)はまだ開けていなかったから、こうしたい、ああしたいという方角も程度も至って微弱なもので、たまに足を伸ばしたり手を休めたりして、満足していたくらいのものだろうと思われる。今日は死ぬか生きるかの問題は大分超越している。それが変化してむしろ生きるか生きるかという競争になってしまったのであります。生きるか生きるかというのは可笑(おか)しゅうございますが、Aの状態で生きるかBの状態で生きるかの問題に腐心しなければならないという意味であります。
⑥活力節減の方で例を引いてお話をしますと、人力車を挽(ひ)いて渡世にするか、または自動車のハンドルを握って暮らすかの競争になったのであります。どっちを家業にしたって命に別条はないにきまっているが、どっちへ行っても労力は同じだとはいわれません。人力車を挽くほうが汗がよほど多分に出るでしょう。自動車の御者になってお客を乗せれば――もっとも自動車をもつくらいならお客を乗せる必要もないが――短い時間で長い所が走れる。糞力(くそぢから)はちっとも出さないで済む。活力節約の結果楽に仕事が出来る。されば自動車のない昔はいざ知らず、いやしくも発明される以上人力車は自動車に負けなければならない。負ければ追い付かなければならない。というわけで、少しでも労力を節減し得て優勢なるものが地平線上に現われてここに一つの波瀾(はらん)を誘うと、ちょうど一種の低気圧と同じ現象が開化の中に起こって、各部の比例がとれ平均が回復されるまでは動揺して已められないのが人間の本来であります。
――夏目漱石「現代日本の開化」
問 上記の文章の要旨をまとめよ(二〇〇字以内)。 (一橋大 2000)
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