パルマを出て一時間ほどでクレモナに到着。ヴァイオリンの街として世界に知られている。
バイオリン博物館は以前からあったが、昨年一新したというので楽しみに見学コースに入れた。
午前9時40分到着、同じビルにはおしゃれなカフェレストランも併設れていた
10時といったら10時ちょうどにドアオープン今日は専属の日本人ガイドさんに案内をお願いしてある。さらに、事前リクエストで25人分のチケットを払えば開催してくれるというミニ演奏会もお願いしている。
建物自体もおもしろい。1941年に建築された「合理主義建築」と日本語に訳されるらしいが、要するにムッソリーニ時代のファシズム様式を合理的に美しく仕上げたもの。たしかに美しくまとまってアールデコ的な雰囲気もあるここから先は写真撮影禁止!
●まずはヴァイオリンという楽器が誕生する以前のルーツ楽器のコーナー。
アラブのウードという楽器が東と西に伝播して、中国から日本では琵琶になり、ヨーロッパではリュートになっていったそうな。
このあたりでは、ブリッジが平らで単音演奏には適さない、吟遊詩人が伴奏に用いたもののようだ。
やがて、一弦一弦を個別に弾けるようにするためにブリッジが盛り上がり、弓を弾きやすいように胴の横のところを切り取り、女性の腰のようなかたちになったというわけ。なるほど。
およそ1560年頃に現代のヴァイオリンの形が形成され、そのころには上下の板をつなぐ「魂柱」も存在するようになった。
●誰か特定の人物がこの形を考え出したとは言えないが、クレモナの職人集団の知恵は確実に影響を与えたと考えられている。
クレモナの職人たちの元祖は1534年にフランス宮廷に38丁のヴァイオリンをはじめとする楽器を納入した記録が残る、アンドレア・アマティ。裏板にシャルル九世の紋章とモットー「正義と慈愛」が書かれたものもあった。
アンドレア・アマティの孫にあたるニコロ・アマティ(1596-1684)が、多くの弟子を育て、その中のひとりが、かの有名なアントニオ・ストラディヴァリであります。ストラディバリがあまりに有名になってしまったので、彼の像が博物館前にたっております。
17世紀半ばにストラディバリをはじめとする職人たちが工房を構えていた一角は、今は新しいビルが建っている。
さらに、ストラディバリが葬られたドメニコ教会も取り壊され、ローマ広場になってしまった。
彼の墓のプレートコピーと言われるものが、墓のあったあたりに記念碑になっている。
楽器博物館には、金額のつけられないような名器がずらりと並んでいるが、これらの楽器は弾かれいなくては朽ちていくのはまちがいない。なので博物館ではちゃんと鳴らす係りの人がいるのだそうだ。
さて、11時からは、我々の専用ミニコンサート。
どの楽器がその日に使われるのかは指定できない。ヴァイオリン学校の先生だという人が今日もってこられたのは、なんとニコロ・アマティだった。ストラディバリに比べるとやわらかい優しい音色だというが、比べて聞くことなどはできないのでなんともいえない。
今日、その楽器を用いて演奏されたのは、バッハ三曲、それに現代曲かと思うような技巧の曲。
25分の演奏の間、ほんの二メートル前で鳴っているその古い木の箱に驚かされた。
二百年以上前の楽器が、現代の曲を楽々演奏できるレベルに、すでに至っていて、
それが現代の演奏家を充分満足させるレベルで使われているという事実。
ヴァイオリンというのは、楽器のひとつの完成されたかたちなのだろう。
二十五人分のチケット代金を払って、七人の為にミニコンサートをしてもらった価値があった。
*
博物館のブックショップには、ここだけにしかないだろうお土産もある。
「音楽の香り」と書かれて、ヴァイオリンの削りくず。
***
旧市街も少しだけ歩いておこう。
もともとロマネスクで建築された大聖堂のファサードは、改築され丸窓がつけられ、頂上の三角屋根の部分も改築されている。
入口前のポータルでは、この地方の名産品の相場が決められていた。
それは「レンガ」。ローマ時代からこのあたりの土はレンガを作るのに最適で、
その販売相場をこの大聖堂の列柱前で商人同志が決めていたのだそうだ。
「トラッツォ」と呼ばれる高さ112mの塔は、元は市の持ち物だったが、現在は教会の鐘楼としてつかわれている。
はめこまれた天文時計には、日食月食をさすとする針までつけられている。
★この町の紋章は「金の球を握った手」
伝説によると、クレモナは神聖ローマ皇帝に税金として黄金の球をつくって献上していたのだそうだが、それに不満を持った一人の若者がきっかけて暴動が起こり、皇帝は譲歩して黄金の球を市民のものとしたという。
***
午後三時半過ぎ、ミラノ大聖堂徒歩三分のホテルにチェックイン
バイオリン博物館は以前からあったが、昨年一新したというので楽しみに見学コースに入れた。
午前9時40分到着、同じビルにはおしゃれなカフェレストランも併設れていた
10時といったら10時ちょうどにドアオープン今日は専属の日本人ガイドさんに案内をお願いしてある。さらに、事前リクエストで25人分のチケットを払えば開催してくれるというミニ演奏会もお願いしている。
建物自体もおもしろい。1941年に建築された「合理主義建築」と日本語に訳されるらしいが、要するにムッソリーニ時代のファシズム様式を合理的に美しく仕上げたもの。たしかに美しくまとまってアールデコ的な雰囲気もあるここから先は写真撮影禁止!
●まずはヴァイオリンという楽器が誕生する以前のルーツ楽器のコーナー。
アラブのウードという楽器が東と西に伝播して、中国から日本では琵琶になり、ヨーロッパではリュートになっていったそうな。
このあたりでは、ブリッジが平らで単音演奏には適さない、吟遊詩人が伴奏に用いたもののようだ。
やがて、一弦一弦を個別に弾けるようにするためにブリッジが盛り上がり、弓を弾きやすいように胴の横のところを切り取り、女性の腰のようなかたちになったというわけ。なるほど。
およそ1560年頃に現代のヴァイオリンの形が形成され、そのころには上下の板をつなぐ「魂柱」も存在するようになった。
●誰か特定の人物がこの形を考え出したとは言えないが、クレモナの職人集団の知恵は確実に影響を与えたと考えられている。
クレモナの職人たちの元祖は1534年にフランス宮廷に38丁のヴァイオリンをはじめとする楽器を納入した記録が残る、アンドレア・アマティ。裏板にシャルル九世の紋章とモットー「正義と慈愛」が書かれたものもあった。
アンドレア・アマティの孫にあたるニコロ・アマティ(1596-1684)が、多くの弟子を育て、その中のひとりが、かの有名なアントニオ・ストラディヴァリであります。ストラディバリがあまりに有名になってしまったので、彼の像が博物館前にたっております。
17世紀半ばにストラディバリをはじめとする職人たちが工房を構えていた一角は、今は新しいビルが建っている。
さらに、ストラディバリが葬られたドメニコ教会も取り壊され、ローマ広場になってしまった。
彼の墓のプレートコピーと言われるものが、墓のあったあたりに記念碑になっている。
楽器博物館には、金額のつけられないような名器がずらりと並んでいるが、これらの楽器は弾かれいなくては朽ちていくのはまちがいない。なので博物館ではちゃんと鳴らす係りの人がいるのだそうだ。
さて、11時からは、我々の専用ミニコンサート。
どの楽器がその日に使われるのかは指定できない。ヴァイオリン学校の先生だという人が今日もってこられたのは、なんとニコロ・アマティだった。ストラディバリに比べるとやわらかい優しい音色だというが、比べて聞くことなどはできないのでなんともいえない。
今日、その楽器を用いて演奏されたのは、バッハ三曲、それに現代曲かと思うような技巧の曲。
25分の演奏の間、ほんの二メートル前で鳴っているその古い木の箱に驚かされた。
二百年以上前の楽器が、現代の曲を楽々演奏できるレベルに、すでに至っていて、
それが現代の演奏家を充分満足させるレベルで使われているという事実。
ヴァイオリンというのは、楽器のひとつの完成されたかたちなのだろう。
二十五人分のチケット代金を払って、七人の為にミニコンサートをしてもらった価値があった。
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博物館のブックショップには、ここだけにしかないだろうお土産もある。
「音楽の香り」と書かれて、ヴァイオリンの削りくず。
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旧市街も少しだけ歩いておこう。
もともとロマネスクで建築された大聖堂のファサードは、改築され丸窓がつけられ、頂上の三角屋根の部分も改築されている。
入口前のポータルでは、この地方の名産品の相場が決められていた。
それは「レンガ」。ローマ時代からこのあたりの土はレンガを作るのに最適で、
その販売相場をこの大聖堂の列柱前で商人同志が決めていたのだそうだ。
「トラッツォ」と呼ばれる高さ112mの塔は、元は市の持ち物だったが、現在は教会の鐘楼としてつかわれている。
はめこまれた天文時計には、日食月食をさすとする針までつけられている。
★この町の紋章は「金の球を握った手」
伝説によると、クレモナは神聖ローマ皇帝に税金として黄金の球をつくって献上していたのだそうだが、それに不満を持った一人の若者がきっかけて暴動が起こり、皇帝は譲歩して黄金の球を市民のものとしたという。
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午後三時半過ぎ、ミラノ大聖堂徒歩三分のホテルにチェックイン