旅倶楽部「こま通信」日記

これまで3500日以上世界を旅してきた小松が、より実り多い旅の実現と豊かな日常の為に主催する旅行クラブです。

ペルーを離れる日の午後、クスコ大聖堂前広場からロナルドくんのお母さんのお店へ

2016-09-13 14:37:07 | ペルー

サクサイワマン遺跡からクスコ市内へ降りてきた。大聖堂、やっぱり見ておきたいと思って入ることにした ※内部は撮影禁止、興味深い「最後の晩餐」があったので⇒こちらに書きました。


広場に出てきてみると、びっくり。警察・機動隊が大聖堂前にずらりと並んでいる。どうやらデモ隊を囲んでいるようだ↓



きのう、クスコに戻るときに出会った村のストライキでわかるように、大多数のアンデス農民たちは、観光の恩恵などたいしてうけていないのだろう。貧しい・学問のない人々の訴えというのは、いつの時代も・どんな国でもなかなか汲み上げられることはない。こうして我々外国人観光客の目につくところでで示威行為をすることが精いっぱいなのかもしれない。


この写真からは伝わりにくいが、静かな集まりだった。スローガンを掲げる人はいるが、大声で叫ぶようなことはなく、物売りが人々の間をのんびりとまわっている。


警察・機動隊も、足元に座っている犬を追い払うこともなく、時々足で相手をしてやっていたりする↓



なんだか不思議な、ゆるいデモ隊と警察・機動隊の関係。これは両者がけっして敵対関係ではないことからくる雰囲気かもしれない。警察・機動隊のメンバーもクスコの一般住民。デモをしている人々の気持ちも理解しているだろうから。



**さぁ、クスコの最後に、この旅最後のガイドをしてくれたロナルドくんのおかあさんの店にいってみよう。


そのお土産物屋街は大聖堂からは少し離れた場所にあった。空港からの道で何度も通った広場。「この広場の名前は?」ときくと「しっぽ広場」だという。インカ帝国時代のクスコはピューマの形につくられているが、そのしっぽの部分にあたるから、この名前がついているのだそうだ 観光客が足を運びやすいとは言えない、観光バスが横付けすることなない立地


一坪ほどの敷地のお土産物屋がぎっしり集まっている↓


はっきり言って、どこも同じような品揃え。露店よりはずっとよいが、ここで商売をしていくのは、思うほど楽ではないだろう。

ロナルドくんのお母さんは我々の手をとって迎えてくれた。

  ※ロナルドくんの話をこちらに書きました


とりたてて買いたいものがあるわけではなかった、けれど、ふと小さな指人形が目についた。指にはめてみると、とても小さい。楽しそうにつくっている子供の姿が見えるような気がした。

昨年、チチカカ湖へ行く途中に寄った農家がつくっていた人形を思い出した。
⇒こちらにもう少し書きました

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サクサイワマン遺跡~巨石の石組みに圧倒される

2016-09-13 11:39:51 | ペルー

クスコから十五分ほど、盆地の市街を見下ろす丘にあるサクサイワマン遺跡は、数あるインカ遺跡のなかで最も大きな石を積み上げてあることで知られている。今回、リマへ戻るフライトが午後三時となり、せっかくだから午前中にオプションを組んで訪れた。

***朝、ホテルのちかくを散歩していて入った「パン・コン・チチャロン」屋さんの話はこちらに書きました

市街を出て、くねくねした古い道をのぼっていくと、クスコの赤い屋根が見晴らせる場所に至る。

旧市街中心のクスコ大聖堂の屋根は、あんな風にもこもこしていたのか↓

★ちょうど逆側にの丘に文字が書いてある。VIVA EL PERU(ペルー、万歳)↓

ここで、ガイドのロナルドくんは、びっくりすることを言った。

「ぼくがちいさいころ、あそこにはハンマーと鎌のマークがつけられていたんです。」 それはいったい?⇒※こちらにもう少し書きました。

 

サクサイワマン遺跡入口のこの展望場所には、観光客を目当てに写真を撮らせる地元民がいる。この動物は、アルパカです↓

****さて、サクサイワマン遺跡に入る

ここは「要塞」と説明されることもあるが、実際には神殿であった。全体は稲妻の形「ギザギザ」になっており、雨・天空・光というようなものを崇拝した場所だったと考えられる。「要塞」と呼ばれるのは、1536年にスペイン支配に対してたちあがった人々がここに立てこもって抵抗をしたから。

上の写真でも丸く見える部分には塔がたっていたと推察される。現場ではこのように見える↓

ムユック・マルカ(「丸い塔」)と通称される。この塔が市内に復元されています」とロナルドくんが言って、ぴんっときた。空港から市内へ行く時に必ず見る、インカ皇帝の像がのせられた塔はそういうものだったのか

 

近づくと、石組みは驚異的な大きさ。それが緻密に組み合わされているのにあらためて驚かされる。

入口、扉のあった門

巨石を組み合わせた中に、リャマを画いた場所がある↓

右側を向いたリャマの姿、石の中に見えますでしょうか?↓

※顔とその上の耳のかたちがポイント。足は表現されていません。

考古学者の推察によると、この場所はリャマを犠牲に捧げていたとのことですが・・・わかりません。

鉄器も車輪も持たなかったインカの人々が、どうやってこれらの石をこのように組み上げたのか?

グラハム・ハンコックの「神々の指紋」では、インカではなくはるか古代の文明がつくりあげたのではないかと推察している。現物を見ると、そうも思いたくなる。

いちばん傑作な仮説「石にはひとつひとつ名前があって、王がその名前を呼んで指図すると、そのとおりに浮き上がって移動した」

 **

下の写真、遺跡の周りにはユーカリが高く茂っている。が、これはオーストラリアから入ってきたもので、インカ時代にはなかった。インカ時代にあった樹木は手前の低木程度。木材をつかった日本のような巨大な構造物は当時は考えられなかったのだろう↓

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