トゥーンは古代からの要衝。旧市街を見下ろす14世紀からの城が残る↓
同名のトゥーン湖の西の端に位置している。インターラーケンと逆側になる。下の地図で右下の端っこ↓パッケージツアーがよく滞在するインターラーケンはその名前のとおり二つの湖の間。アイガー、メンヒ、ユングフラウのそびえる方向へ上がっていったグリンデルワルドほど便利ではないが、スイスの地方都市らしい落ち着きが好ましいので、今回はこの町に連泊する日程にした。
この町には知るべき歴史と、歩くべき旧市街があるのだ↓ベルンに似た二段になった旧市街の歩道↓
ぱっと写真だけ見せたら「ベルン?」と言われそう↓
それもそのはず、この町の基本形は、ベルンをつくったのと同じツェーリンゲン家によってなされたものだった。ベルンは同じアーレ川の下流に位置しているのである。川に挟まれた蛇行した旧市街という形も似ている。それは、城の塔から見下ろすと、「あ、そうか」と、得心できる↓
厚い城の石壁は中世の雰囲気。塔の上は獄舎であったこともある↓
ツェーリンゲン家の紋章が、市庁舎近くの石畳に描かれていた(もちろんこれは近年のものであります)↓
市庁舎前の広場↓
スイスの町には旗が多い。おなじみのスイス国旗と共に黄色地に黒熊のベルン※前出の旧市街の通りの写真に載っています
そして、ベルン州トゥーンの紋章は、赤地に斜めの白ベンドそこに黄色の★星。博物館となっている城に展示されていた18世紀末の紋章↓
↑中央部分がはがされているのはなぜ? ナポレオンが占領した際、「ヘルベチア共和国(1798-1803の五年間だけ存在した)」を設立し、このトゥーンは無理につくられたオーバーラント州の州都にされた。その時ベルンの紋章は消された跡である。
トゥーン湖から流れ出すアーレ川にかかる屋根付の橋は、水門の役割をしている↓
水の色は不思議なほどのエメラルドグリーン。そこに泳ぐおおきな鱒↓
旧市街から城へのぼってゆく階段↓
途中から分かれて、右が教会方面へ↓ロマネスク起源という教会、次回は見学したい…↓
そのまま上がってゆくと城↓
中庭に入ると、さっきの中央塔が見上げる高さで聳えていた↓
入場は、今回「スイス・パス」を使って無料(^.^)
この城は1180年から90年に、ツェーリンゲン家のベルトルド五世によって建設されたのが始まりとされる。
★ちょっと歴史の話⇒ツェーリンゲン家はこのベルトルド五世で最後。1218年後嗣なく没しすると、妹のアンナが嫁いでいたキーブルグ家(北スイスから南ドイツに領土を持っていた)のウルリッヒ三世が領土を継承。そのキーブルグ家もハルトマン四世が後嗣なく、妹のハイルウィヒがルドルフ・フォン・ハプスブルグ(ハプスブルグ家最初の神聖ローマ皇帝)の母だったので、領土はハプスブルグ家のものとなった。
ベルンのほうは帝国自由都市となり、半ば独立。1353年にスイス同盟に加入する。1384年に借金のカタにトゥーンの町を手に入れたのである。
○城の中の展示で、ツェーリンゲン家時代からの町の発展を視覚的に理解させてくれてる↓
ベルン州の紋章↓1696年と刻まれている
展示されていた双頭の鷲紋章は、1450年ごろ教会の天井ヴォールトのキーストーンだったもの↓
ここで双頭の鷲はハプスブルグ家ではなく、神聖ローマ帝国の紋章としてのものである。ベルンは1648年に三十年戦争が終わるまで神聖ローマ帝国の一都市でもあった。
○古代の展示もある。これは紀元後二世紀ローマ時代のマイル・ストーン↓
Aventicum(=Avenches現在のヴォー州)から7レグアス(15.5㎞)と読める↑
★このアヴァンシュという町、2012年秋「黄金色スイス」で行ったことがあった。ローマらしい円形劇場の写真も、こちらの写真日記からごらんいただけます
ナポレオン戦争後、現代にいたるまで、トゥーンにはスイス最大の駐屯基地があり、士官学校も置かれている↓
19世紀、アルプス観光の拠点となっていった時代の解説もある。町の産業として陶器産業がはじまり、最盛期には50もの製造所があった。1870年には「トゥーンのマヨルカ焼き」として出品していた↓
これは、お土産屋さん!
このお城見学で、トゥーンの事がよっく理解できました↓
眼下に市庁舎の広場↓と、アーレ川
***ホテルに戻って休憩 ホテルのすぐ前↓
夕食、観光にはインターラーケンほどは力がはいっていないので、チーズ料理もなかなか発見できず、イタリアンにいたしました↓
おいしいのがいちばん(^.^)
明日は、ユングフラウエリアの観光。定番にとらわれず、行く場所をえらぼう。
お天気だけ、願います。