旅倶楽部「こま通信」日記

これまで3500日以上世界を旅してきた小松が、より実り多い旅の実現と豊かな日常の為に主催する旅行クラブです。

大堤防を越えてフリースラントのレーワルデンへ

2017-10-11 18:31:12 | オランダ
大堤防には雨交じりの強い風が吹いていた。傘はさせない。風をはらんだコートをまとった男の像がぴったりの風景だった↓

オランダを訪れるようになって、一度は見ておきたいと思っていた場所だ。何百年にもわたる干拓事業は、オランダならではの国家事業なのだ。この堤防はその総仕上げのようなもの。
北海と続いていたアイセル海を仕切って湖にしている↓指揮を執ったのはコルネリス・レリー氏。銅像は彼だった↓

⇒※こちらにもう少し詳しく書きました
堤防を渡った北はフリースラント。今日の宿泊はフリースラントの首都とされるレーワルデン↓


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町の中心にあるポストープラザ・ホテルにチェックイン↓

上の写真、左右まったく違うスタイルのビルだが、ともにポストープラザホテルである。
左側はもともと郵便局として建設された。右側は銀行だった。二つの建物を渡り廊下でつないで一軒のホテルにした。
内部はアールデコ調で快適だ。

雨が少し落ちているが、夕食前に旧市街をひとまわりしてみよう。

運河の流れる快適な街だが・・・
※翌日この町のガイドさんに伺うと、かつて運河はホテルの前をはじめたくさん流れていて、それはとても汚れた悪臭を放つものだったのだそうだ
下の写真がホテルの前の通り↓見えることと知ることは違うのだと改めて認識

ホテルの前の広い道をはさんで向かいにある州庁舎の入口↓二匹のライオンがこの地域の紋章↓


現在、旧市街の運河はYの字型に遺されているだけ。その交差する場所・運河の上がもりあがった広場になっている↓


2013年に開館した「フリースラント博物館」は市街の建物を圧するように広場にそびえる↓



レーワルデンの出身者でいちばん有名なのは、第一次世界大戦の時期にパリでマタ・ハリという名前で活躍していた踊り子だろう。彼女が本当にドイツのスパイだったのかは分からない。今年が処刑されてちょうど百年なので、展示会が行われる↓残された白黒の写真はエキゾチックな顔立ち↓


下の建物や描かれた人物については、翌日の地元ガイドさんに説明されてはじめて理解できた↓


レーワルデンのシンボルとされている「オルデホーフェ塔」通称「レーワルデンの斜塔」↓

写真よりも実際に見ると確かに傾いている。↓この広場にある石がなにか?これも翌日に話をきいて理解することになる




ポストープラザ・ホテルにて夕食

牡蠣はこぶりながら良い味 燻製の魚と野菜に穀物
焼き魚も



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エダムに立ち寄る

2017-10-11 16:23:56 | オランダ
ライデンを出発して、フリースラントへ向かう途中。アムステルダムの北にある、チーズの村エダムへ立ち寄ることにした。
そこは、1609年から12年にオランダ人が最初に干拓した世界遺産「ベームスター干拓地」に近い。高速道路から降りるとき、遠くに看板だけが見えた↓

ベームスターはオランダチーズのブランド名にもなっているそうな
↑※詳しいサイトにリンクしております
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小さな村。静かな広場。



でも、軽くランチに入った店は、オランダ人の女性グループがにぎやかにランチ会をしていた。日本とかわりません(^.^)

「名物料理は?」とは、よく訊かれる質問だけれど、パンの上にコロッケがごろっとのっているだけだと残念?↓

小松は実をとってカルパッチョ


さぁ、小さな町をあるいてみよう


今は小さな田舎の村になってしまっているが、通商で栄えた町。E川にダムをつくって建設されたのでエダムという名前になった。1526年には神聖ローマ皇帝カール五世が、毎週チーズ市を開く権利を与えた。

この橋は1881年にかけられた新しいもの↓






「小教会」の鐘楼はなぜかひょろりとした形をしている↓

もとあった身廊部分が壊れてしまっていたのか↓柱の跡が残されている↓


★チーズの町として発展したのは、神聖ローマ皇帝カール五世があたえたチーズ市開催の権利が、オランダ独立後も総督によって認められたからである。公式なチーズ市は1922年まで続けられた。その場所へ行ってみると、思ったよりも小さな広場ではある↓建物はチーズの計量所↓

チーズを乗せて運ぶ像がある。チーズ屋さんにもその絵が↓

チーズ屋さん、ぽつぽつあります↓

エダムに特徴的な丸いボールの巨大チーズ。外側は蝋でかためてある↓

重たいけどひとつ買いました。切ってみるのが楽しみ(^.^)

近くに売っていたキノコはちょうどシーズン、どっかで食べられないかしらん

今日はこれから大堤防経由してフリースラントへ
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ライデンを歩く

2017-10-11 14:37:43 | ベネルクス

画家レンブラントは1606年にこのライデンで生まれた。路地を入ると生誕地とされるところにある新しい建物にプレートがかかっていた↓

そこから見える風車は、レンブラントの両親の持っていた風車を1990年代に復元したもの↓

小さな広場には、少年のレンブラント?

イーゼルの上にある絵は自画像なのか、レンブラントの母なのか?
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[Sand stone gate)は、かつて「自警団門」とよばれていた場所↓

レンブラントの描いた自警団は、17世紀から18世紀には多くの町で組織されていた。
スペインからの独立直後には、治安を守る国家的組織が未発達で、市民が自ら武装していたのだろう。
その場にあった解説によると、「1795年に自警団はその軍隊的な性格を失った」とある。ちょうどフランス革命でナポレオンの軍隊が占領した時期にあたる。

ちかくにあるライデン大学が管理する建物は、かつて貧窮院だった

小さな橋を渡ると、フリースラントの旗を出したパン屋さんが角にあった↓

フリースラントはオランダの北部。独自の言語と習慣を今もとどめている「オランダの中の異国」だという。今日の午後はそのフリースラントの首都レーワルデンへ行くので、ちょっと気になって立ち寄った。

どれも甘いパンや焼き菓子(いくつか買って食べました)。しかし、「これがフリースラントの!」というような感じはひとつもなくすぎる(笑)

↑お店の前の運河をはさんでたつ家。よくあるのだけれど、オランダらしく、つい撮ってしまう。
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●ラッペンブルフ通りは13世紀後半に掘られた運河がある。

オランダの黄金時代17世紀には裕福な人々が屋敷をかまえた。今でもその名残は感じられる↓風景はあまりかわっていないようだ

スペインからの独立を実質的に果たし、プロテスタント国としてカトリック的な宗教観に縛られない国となったオランダでは、当時の先進的な学問の本が出版されていた。イタリアでは「地動説」で宗教裁判にかけられたガリレオの、他国なら御禁制の本も、ライデン大学は印刷した。
ガリレオの地動説に影響を受けたフランス人哲学者デカルトは、1640年にこの通りの23番地に住んでいた※現地の解説版より
人間の存在理由を、神ではなく自分自身であると規定したデカルトでも、オランダならば宗教界からの弾圧を受けずに住むことができたのである。

19世紀になって、このラッペンブルフ通りに住んだ日本ゆかりの人物がシーボルト。日本を追放された三十代はじめの彼が住んだ家が、今は記念館になっている。★シーボルトハウスには、彼が持ち帰った大量の品々の一部が今でも収蔵されている↓医師であった彼はアジアの医療である鍼灸に興味をもち、人体模型とともにその知識を持ち帰った↓

同時期に出島の商館長が作成していた辞書↓

ただの「犬の剥製」に見えるけれど、博物館の日本語解説を聴くと、シーボルトと、愛犬「さくら」の関係が見えてきた↓
※こちらに書きました


記念館ではちょうど古い地図に描かれた日本の展覧会をやっていた↓

シーボルトは日本の地図を持ち出そうとしていたことで追放になった。

****★ライデン大学の植物園と日本庭園
オランダで最初に創設された、王家の方々も通った名門。

ヨーロッパでは大学は特定のキャンパスではなく町中の様々な建物を利用している場合が多い。ライデンもその典型。市民も、我々のような旅人でも、ひろく利用することができる。植物園の一角へ↓

シーボルトが日本から持ち帰って植えた木々が、今でも枝をひろげている↓


小さな日本庭園にある記念胸像↓

なぜか菅原道真の↓


日本関係だけでなく、歴史的な植物研究についての解説がされている。16世紀にミツバチの研究をした学者の功績を再現したコーナーに、昔ながらの養蜂が再現されていた↓


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ライデンには1608年にイギリスから移住してきた清教徒の一団が住んだ。彼らは十年ほどは宗教的に自由なオランダで暮らしたけれど、外国人の移民たちには厳しい環境だったのだろう。1920年にはいったん自国に戻り、プリマスから新天地アメリカを目指したのだった。その記念プレートが置かれている↓

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この13世紀からの四角い塔(左の六角形の部分は15世紀)のあるたてものでは裁判が行われ、前庭では窓から判事の見守る中、公開処刑が行われていた↓

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レンブラントが十歳から十四歳まで通ったラテン学校があった建物↓

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市庁舎↓

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運河の上にかかる橋↓

その屋根裏には小麦が貯蔵されていた↓

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●要塞
スペインからの独立戦争中の1574年、半年にわたって包囲されたライデンの住民がたてこもったという円形の要塞が丘の上にある↓


内部には深い井戸が掘られていて籠城を可能にした↓


ついに堤防を決壊させて、包囲していたスペイン軍を追い払うという市民にも打撃をあたえないでは済まない方法をとった。
オランダ総督となる沈黙候ウィレムは、その行為をたたえて褒美を与えることにした。
ライデン市民は、オランダで最初の大学の設立を要請し、ここからライデンの発展がはじまったのだった。

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