旅倶楽部「こま通信」日記

これまで3500日以上世界を旅してきた小松が、より実り多い旅の実現と豊かな日常の為に主催する旅行クラブです。

雨の間人(たいざ)でカニを食べる

2018-03-22 20:20:20 | 国内
カーブの先に荒れた海が見えた↓

道は細く曲がりながら海へ降りてゆく。港で「龍宮」のメンバーが待っていてくださった。間人(たいざ)を盛り上げる地元有志のチームである京都から我々が乗ってきたバスでは大きすぎて登っていけない展望台へ、バン二台を用意してくださっていた。乗り換えてもっとくねくねした道を五分ほど登ると…

入江に瓦屋根を敷き詰めたような間人の町が一望できた。
印象的な突き出した岩は犬ヶ埼だろう。荒々しい海岸線が続いている↓

間人のカニをとることが許された、たった五隻の船が見えた↓


雨混じりの風が吹きつけるこの場所に、松本重太郎の墓がある↓

鉄道を敷き銀行を興して、明治維新から日清・日露戦争の頃までの日本を牽引したこの人は間人の出身で、京都で丁稚奉公からはじめたのだ↓
「龍宮」のメンバーが尽力して、近年整備されて解説版も設置されたのだ↓

あの時代、故郷間人へは帰るのも簡単ではなかっただろう

再び町へ降りる。この風景、たしかにひと目見ておくだけで、間人を理解する大きな手助けになる。
視覚的に全体を俯瞰することは重要なのです。この為だけに車を用意してくださっていたのか。
港の周辺は急な斜面に古い家がぎゅっと寄り集まっている。その間の路地を降りてゆく↓


繁盛と安全を祈って家々にこんなものが↓

↓この立派なのは江戸時代からのモノなのだそうだ↓

この家の持ち主はもう住んでおらず、この恵比寿様?も、いつ行き場所を失わないか心配されていた

カニのセリが行われる市場の裏に、さっきのカニ捕りの船五隻↓

3月20日で今カニの漁が認められたシーズンは終わった。
競の行われる場所で解説↓

熱の入ったお話は聴きたいけれど、ちょっと寒すぎるので宿へ急ぐことにした。

宿で迎えてくれたのは、我々の為にとっておいてくださった生きている間人カニ!

↑みどりいろのタッグが間人蟹の証。期待が高まります

部屋でひと休みして、いよいよカニ尽くしの夕食へ
まずはお刺身で↓

間人カニは比較すると臭みがすくないという。もちろん新鮮だから。
そして、身をしゃぶしゃぶ風にもする。
味噌と日本酒は絶妙に合う↓

この時期の子持ちカレイもぜったいお勧め↓

焼きカニ↓ちょうど良いように付きっきりで焼いてくださった。我々焼きすぎますもんね。

茹でカニ↓

こちらのミソもたっぷり↓

そして、鍋↓

雑炊にする↓これが絶品なんです↓

下見の時には雑炊が出るタイミングにはお腹張り裂けそうになっていて残念至極だったので、本番には「雑炊がおいしく食べられる量にしてください」とお願いしていたほどに(^.^)


夕食後、別室で「龍宮」メンバーの方々がいろんな間人の魅力を紹介してくださった。
本日はシンガポールにセールス旅でご不在のおかみさんも映像で登場↓

カニの買い付けにはおかみ本人が行っているので自信を持ってお勧めできるホンモノの間人カニを提供できるのだ。
夏場のカヤックの紹介や、古代の里の弥生時代の笛や↓

間人(たいざ)の名前の由来である間人皇女(はしひとのひめみこ)が住んでいた場所が今の中宮寺で、そこにおわす半跏思惟像がモデル?とか↓

いろいろな角度からお話をしてくださった↓

なにより、間人滞在の魅力はこうして迎えてくださる皆さんに出会えたことに違いない(^.^)

明日は晴れますように
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《手造の旅》あなたの知らない京都 宮津から間人へ

2018-03-22 07:29:08 | 国内
御苑の西にあるホテルから京都県北部、天橋立から丹後半島を目指す。

高速が発達したおかげで二時間ほどで西舞鶴駅に到着できた。

今日はこれから10:29発の丹後鉄道 特別列車「あかまつ号」に乗る↓

この列車は乗車券のほかに別料金が必要だが、予約が必要なので混み合う事はない↓

乗車時に記念チケットを収納してスタンプも押せる台紙をくださる

車内は明るいサロンのようなつくり。

あの「ななつ星」(JR九州のクルーズトレイン)と同じ水戸岡さんデザイン↓

観光案内資料もお土産も準備↓

景色や歴史の解説もあり、このな地ビールも注文できる↓

あ、普通の列車とすれちがった↓

古い車両を改造したのだが、よくできている。トイレや洗面所に苦労の跡が感じられた↓

海岸線はこんな天気の日でも見ていて飽きない↓
見所の鉄橋では少し止まってくれたりもする↓

駅にはこんな看板も↓森鴎外の「山椒大夫」の舞台になった地域なのだ

一時間ほど列車の旅、良いですねぇ(^.^)
**
天橋立の一つ手前、宮津駅で降りると「宮津観光アテンダントまちなか案内人」の堀田さんが待っていてくださった。

宮津の町は江戸時代以前から日本海の重要な港だった。商業港としてもそうだし、すぐ近くに「日本三景」のひとつである「天橋立」があるのだから。下の写真(Wikiから)下が宮津港、上に長く伸びているのが「天橋立」↓

この町ゆかりの人物でいちばん有名なのは明智光秀の娘細川ガラシャだろう。彼女ゆかりの地に建てられた、継続利用されているものとしては日本で二番目に古い教会↓
美しい木造の後ろ姿がオリジナル↓

ロマネスク風なアーチにゴシック風の小さな窓がつけられたファサードは、昭和のはじめに地震があった際に改築されてこの姿になった部分↓
その時入口上に聖歌隊席も付け加えられ二階建てに見えるが↓基本は平屋で、内部は当時のままの畳敷きだという。

老朽化で倒壊の危険があるため、2018年3月現在中には入れないが、修復されたらぜひまた訪れたいと思う
※下見の時、間人(たいざ)在住の亀田さんに宮津教会の存在をおしえられていなければ、今回の旅で宮津自体を組み込むアイデアはうまれなかった
細川ガラシャとの話もこちらに書きました


下見の時は自分たちで歩いただけだったのだが、今日は宮津案内の達人がご一緒。なので、同じ場所を歩いても見えていなかったものが見えてくる。理解できる。
↓下の写真、なんてことない古い家は江戸時代末期の下級武士が住んだ頃の原型を残しているのだった↓

トタンで囲ってあるが萱(実際は藁が多く使われたとか)の厚い様子が垣間見える↓

↓和貴宮神社はもともと海のすぐそばに位置していたと考えられている。
宮津の「宮」とは、ここのことなのか↓建立年は古すぎて不明

境内には「水超岩」がある↓ここまでが海だったと考えられている。

日本海沿岸の各地から参拝者寄進者があったことが、刻まれている名前からもわかる↓
ガイドさんに指摘されてはじめて「銭屋五兵衛」の名前を見つけた↓

加賀の豪商で鎖国時代にも藩の重役を巻き込んで海外との密貿易を推進し、さらには海外にも商取引の拠点を持っていたとされている人物。
金沢には記念館もあるようだから、今度是非行ってみよう
↓富山の薬売りからの寄進も↓

京都や丹波からのものもあって、宮津の経済ハブとしての役割が感じられた。

洋建築が建てられていった時代の名残も、この大きな医院の建物に見られる↓

現在も営業していて、後ろに長く木造の病院棟がつながっていた↓ドラマの撮影に使われそうだ


幕末に宮津を治めた本荘氏二代の墓があった↓目の前の石橋はかつて城の庭にあったものを移築したのだそうだ↓なるほど。そういわれなければあまりに唐突・場違いに見えます↓

葬られている父・本荘宗秀という人物は安政の大獄の折、実際に現場で実務にあたっていた人物。
第二次長州征伐でも副総督として現場を仕切っていた。長州藩の捕虜を独断で開放したことをとがめられて家督を息子に譲ることになったが、後にはその行動が彼の命を救うことになった。いつの世も、組織に盲従していてはダメなんですね。

家督を譲られた息子は、明治維新後に籠神社(このじんじゃ)の宮司になった。※本日後程訪れます


昼食に海鮮丼を用意してくださった↓

座ってようやく落ち着いてお話聴けました
「宮津まちあるきアテンダント」の方々と出会えていなければ、こんな宮津は見えてこなかったにちがいない。

昼食後、天橋立の南側に位置する文殊様を訪れる。日本三大文殊として江戸時代から多くの参拝客を集めた。

※《手造の旅》山形で訪れたもうひとつの文殊様についこちらに書いております
もうひとつ

18世紀はじめの絵にはすでに描かれていたというこの丸い石の輪は何?↓

輪っかの中に燈明を入れて、小さな灯台のような役割だっと考えらている。
現在の位置ではなく、小天橋の端にあったという。
「知恵の輪」というのは後世につけられた名前なのだ。

半島をつなぐ橋↓回転して船を通すときいたが↓

直後にほんとに船が通るのに回転がはじまった↓

観光用の船が通るのかと思ったら、二隻の大きな輸送船が通って意外だった。
「こんなところで何を運んでいるのですか?」と訊くと
「ニッケルの鉱石をインドネシアから輸入しているんです。精錬所があるので。」
※こちらにもう少し書きました



天橋立には松林がある。それは人が植えたのではなく自然のもの。この種類の松が塩に比較的強く自然にこうなったのだという。
大事な古木にはしっかり登録番号がある↓


今日はお天気が悪いので展望台に上がっても天橋立はよく見えないだろう。
景色が見えない展望台で時間を浪費するのは止めて、橋立の北側にある籠神社(このじんじゃ)に向かった。

●籠神社(このじんじゃ)は、伊勢神宮の前に大神が居られた場所とされ「元伊勢」の名がある。

本殿が古い寺社建築スタイル「神明造」↓棟持柱(むねもちばしら)が地面から棟まで通っているのが横から見えた。

高床式から発展したとされるこのスタイルは、よく復元図でみる日本古代の建築のようではないか

この本殿の奥、山を登ってたどりつく真名井神社 (まないじんじゃ)はパワースポットとして人気なんだそうな

境内の重要文化財の狛犬は鎌倉時代からのもの
足に切られたあとがある↓

伝説によると、天正年間に参拝者を驚かす獅子が出現するようになり、仇討物語で知られる岩見重太郎が待ち伏せをした。
夜、出現した方向へ太刀を一閃すると姿が消え、翌朝には狛犬の前足が切れてその後出現が止んだのだという。

***
今晩の宿泊地、丹後半島西部の間人(たいざ)まで向かいます


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