旅倶楽部「こま通信」日記

これまで3500日以上世界を旅してきた小松が、より実り多い旅の実現と豊かな日常の為に主催する旅行クラブです。

城壁の街アヴィラ

2015-04-19 13:05:08 | スペイン
《手造の旅》スペイン小都市めぐり、午前中セゴビアをたっぷり歩いた。一時間ほどバス乗車で、午後三時前にはもうアヴィラの堂々たる城壁が見えてきた標高千メートルを超える。アヴィラにはすがすがしい山の空気感が確かにある。

城壁の外でバスを降り、丘の上へ向かってのぼってゆく


パラドールは城壁を入ってすぐ近く。百メートルで到着。予定通りスペイン式のおそ~い昼食を食べる。
中庭やがっしりした造りが昔の邸宅を感じさせる
部屋でちょっと休憩して、午後四時過ぎから歩きだした。お昼休みを終わって教会も開き始める時間となる。

スペインの街の中心によくあるマヨール(大きい)広場ここはローマ時代の町に必ずあるメインストリート南北カルドと東西デクマヌスの交差点だった場所にあたる。

広場の一角を占める教会は、スペインを代表する聖女テレサが洗礼を受けたとされる教会彼女の署名をかたどった標識今年2015年は生誕五百周年にあたるので、大勢の信者が集まってきている。明日は日曜だから多くの教会はミサで入れなくなるだろう。今日のうちに大聖堂へ入っておくことにした。


一見写真の様に見えてしまう絵画が飾ってあった↓
これは今人気の司教画家のイサベル・グエラという人の作品。まだ描き始めてもいない作品が売れてしまうのだとか。

12世紀にさかのぼるロマネスク様式のアプスは、入口付近とは使われている石材が違う。

鉄分の多い部分が赤い模様となっている
大聖堂全体を俯瞰できる模型この丸く突き出した部分はそのまま城壁の一部になっている。
外側から見ると、確かに城壁である
**
翌日の城壁ウォークをここでご紹介。
町の東の端に位置するカテドラル傍から登り、西のアダホス川に近いところまでの約九百メートル。

城壁への登り口は街の地図によると三か所設置されていて、それぞれ立派なチケットオフィスとインフォメーションになっている。これは城壁全体の模型もともとは手すりなどなかったし、ぼろぼろになっている部分もあったから、危なくて普通に観光客を入れることが出来なかった。近年きれいに修復したのだそうだ。


春先のこの季節、塔の上にはたくさんのコウノトリが見られるアフリカとの間を行き来する渡り鳥であります。


城外に位置するサン・ヴィセテ教会。城壁から見下ろすと独特な形状がよくわかるここはアヴィラにあるロマネスクのモニュメントでは必見と言われるモノがある。午後のオープン時間になったら見に行く事にしよう。

宿泊しているパラドールも城壁からすぐの場所。庭に置かれた石の豚。これもまた「ギザンドの牛」と総称される古代ローマ以前の民族がつくった動物のひとつ。保存状態の良いものはローマや中世からすでに邸宅や公共物の装飾につかわれていたのだ。

西の門近くで城壁を降り、川向うの「クワトロ・ポステス(四本柱)」を目指す。
アヴィラの城壁がきれいに見晴らせる。

伝説によると、ローマ時代に神殿が築かれていた場所だとか、幼少の聖女テレサが弟と共に街を出えいこうとしたのをつかまって連れ摸度された場所だとか。

川には古い橋がかかっており「ローマ橋」と伝わっている。


川近くにロマネスクのサン・セグンド教会こちらは16世紀につくられた当時の司教をモデルにしたサン・セグンド像があるとの情報だったが閉まっていた


今回アヴィラは二泊。
明日もゆっくり街を見学できる。
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セゴビア~アルカサールからベラクルス教会へ

2015-04-18 13:14:07 | スペイン
《手造の旅》スペイン中部小都市めぐり3日目。
セゴビアで、今まで行きたくても行けなかったベラクルス教会を訪れる。
ベラクルス教会はセゴビアの城外にぽつんと建っている、十二角形をしたロマネスク様式の教会である。

アル・カサールからこの風景の中に美しく立ち続ける姿を見て、「いつか訪れたい」と思い続けていた。


アル・カサールの定番見学を終え、眼下に城を取り巻いている小さな川まで降りてゆく

春先は花も美しい。
少し急な階段だが、川べりから見上げるアルカサールの姿が美しい城からの通路が通じていたと推察される構造物も川べりにみえる
我々をむかえに来たバスはこの近くに駐車しているが、ベラクルス教会まではもう少し歩いて上がっていかなくてはならない。雲が少し出ている今日の様な空は、希な姿をしたこの教会を美しく見せてくれている。

のぼりきって振り返ると、さっきまで居たアルカサールがそびえている。


**
ガイドブックにはテンプル騎士団によって建てられたと書かれたものがほとんどだが、現場で入手した最新の情報では、ここから北西方向にあるTOROの街の参事会教会が建設したものではないかと推定されていた。TOROは今回の旅の後半に訪れることにしている後期ロマネスクの巨大な教会がある。

テンプルとはエルサレムにある「岩のドーム」を指す。八角形をしていて、ベラクルス教会のモデルになっている建物だ。テンプル騎士団はかつてそこを本拠にしていた。よって、後世の人は、この建物もテンプル騎士団のものと思う方が簡単だった。

テンプル騎士団がフランス王によって壊滅させられ、この教会は1531年にいわゆるマルタ騎士団の管理下に置かれるようになった。同じ十字軍ゆかりの建造物と考えた方が自然に思えたのでもあろう。

マルタ騎士団が設置したと思われるこの教会の縁起が、入ってすぐのところに掲げられている。

超意訳すると「1246年4月(現在の暦になおすと1208年)、聖墳墓(サンセポルクロ)とそこに眠る人々に敬意を表して建設す」となろうか。

中心の礼拝堂をぐるりと囲む構造は、トマール(ポルトガル)の礼拝堂やボローニャ(イタリア)のサン・ステファノ教会のもっとも古い部分と同じ古代の教会の流れをくんでいる。
★ボローニャのサン・ステファノ教会を訪れた日の写真日記は⇒こちらからご覧ください。
★トマール(ポルトガル)の修道院を訪れた日の写真日記は⇒こちらからご覧ください。

当初この教会は「聖墳墓教会」という名前だったが、キリスト受難の「聖十字架」の一部が安置されていたことにちなんで、1531年に現在の「ベラクルス教会」の名前に変えられた。

中央二階ここがいったいどのように使われていたのかよく分からない。

内部装飾は現在ほとんど残っていないが、「聖十字架」=キリストが刑に処せられた十字架の一部が安置されていたという礼拝堂には受難に関係するものが描かれたフレスコ画が一部みられた。

外部をぐるりとまわってみる均整のとれたロマネスク構造。壁に陽時計の跡外壁に沿って、このくぼみに埋葬されていた人があったのがわかる。

なぜ、外側に?どのような人が?全く資料もないが、もともとこの場所には、ぽつんと残された教会だけでなく修道院や墓所もあったようだ。

もともとの正面玄関であったと思われる入口実に均整がとれていて、ロマネスクのポータルがそのまま残されているように見えた。

修復の結果このように復元されたのではあろうが、セゴビア市内にある多くの元ロマネスク教会に比べ、中世から引き継がれた雰囲気を強く感じさせてくれる場所である。
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水道橋の街セゴビアで遅い昼食を

2015-04-17 17:28:14 | スペイン
《手造の旅》中部スペイン小都市めぐり二日目。
古代の水道橋がこれほど美しく街と調和している例は他にない。セゴビアの旧市街が近づき、この優雅なアーチがみえてくると、いつもわくわくする。

町に到着したのは15時半、水道橋すぐちかくのホテルにチェックインしてから、遅い昼食へ。スペインでは午後一時から四時ぐらいが昼食時間なのです。日本と同じ感覚で三食食べるのは決して快適な旅にならないと思い、こんな時間の食事にした。

予約なしで、水道橋真下の老舗レストランを訪ねる。一階のカウンターに話をすると、二階の席へ案内してくれた。十数人だからこういう食事も可能になる。きまったコースではなく、みんなでいろんな料理を注文。塩辛すぎないハム頭からかりかり食べられるエビの網焼き、ミソの味もしっかりしてます アスパラと鳥肉炒め
いちばん印象に残ったのは★キノコのセゴビア風煮込み

土鍋にぐつぐつアツアツで登場。キノコの風味がオリーブオイルやにんにくに負けていません。ソースまできれいにいただきました。
デザートメニューに「驚きのデザート」とあったので注文してみたら、巨大なスフレにつつまれたブランデー?風味たっぷりのアイスクリームがでてきました オーナーのカンディドさんがお店カードにサインして手渡してくださる。女性限定

食べるのに夢中だったが、いつのまにか外は雨になっていた。しばらく雨宿りしてから、少し街を歩くこの水道橋さえ見えていればセゴビアは特別な風景だ

★ロマネスク教会
セゴビアにはたくさんのロマネスク様式の教会がある。
短い観光時間ではなかなか訪れることができなくて、これまで横目でみて残念に思っていた。
今回はひとつでもふたつでも、じっくり見ることが出来るようにしたい。

夕食の後、外観だけだったが、サン・ミジャーンの美しい後陣を見る
そして、だいぶ以前に手に入れていた現地ガイドブックで読んで気になっていたサン・フスト・イ・パストゥール教会へ。

ホテルのすぐ裏手、旧市街の外に位置する丘にある。簡単な解説にはセゴビアでも最も古い教会のひとつと考えられているそうな。

たしかにこの鐘楼の層になった石積みをみていくだけでも、すくなくとも五回以上は建築・修復が行われているのだが分かる。半ばにはアル・カサールの壁と全く同じデザインの箇所も見える。現在の建物は11世紀ごろからのものらしいが、それ以前、もしかするとイスラム支配以前にもさかのぼる歴史があるのではないか。

入口の解説写真に、アプスを飾るロマネスクのフレスコ画が紹介されていた。
今の時間は閉まっているが、よし、明日はここを訪れて見ることにしよう。きっと、皆さんが予期していないセゴビアの楽しみになるはずだ(^^)

****
疲れて9時ごろには寝てしまったが、時差で真夜中に目が覚めた。
窓から見える水道橋がライトアップしているのが見えて、写真を撮りに出ることにした。セゴビアの水道橋夜景、ここに泊まったからこそ楽しめまする(^^)


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エル・エスコリアル、フランコ将軍の墓

2015-04-17 16:09:38 | スペイン
《手造の旅》スペイン中部小都市めぐり、第二日目。

日本からパリを経由して朝九時半過ぎにマドリッドの空港に到着。すぐに北西方向に走り出す。
空港の近郊にはまたおもしろい建物が増えている

マドリッド郊外でもこのあたりは貴族が広大な邸宅を構えていた(いる)地域。
「バルドの森」には、現在の国王も広大な敷地に邸宅を建てて住んでいる。

「あれは、フランコ将軍の別荘だった建物ですよ」

なんだかヒッチコックの映画に出てきそうな雰囲気。
1975年に亡くなるまで、スペインの実質独裁者だったフランコ将軍はこんなところに住んでいたのか。

しばらくすると、山並みの間に巨大な十字架が見えてくる。この距離から見てあれだけの大きさに見えるのだから、実際どれほど巨大な建造物かのか。

あそこは「ヴァジェス・ロス・カイドス=戦没者の谷」と名付けられ、スペイン市民戦争の犠牲者を敵味方の区別なく弔う場所とされている。フランコ将軍も葬られている。

二十年以上前、スペイン市民戦争のなんたるかも知らない頃に、この十字架を見てびっくり仰天したのが、今回のコースを企画するひとつの動機である。


あの十字架のふもとへは後で行くとして、今日、最初に訪れるのは、歴代スペイン王家の墓所にもなっている、16世紀にフェリペ二世が建設した巨大な修道院エル・エスコリアル。
こちらもまた巨大な建築であります。

バスを降りて歩く町並みは、16世紀以降にいっきに拡大した地区。この建物は18世紀のもの ヴィクトリア女王通りという名前スペイン国王アルフォンソ13世の妃がヴィクトリア女王の孫だった=前国王ファン・カルロスの祖母にあたるヴィクトリア・エウヘニア

この町は避暑地で、二万の人口が夏場には六万に増えるのだそうだ。たしかにこの時期は人の気配のしない別荘風の建物がたくさんある。

山は花崗岩で出来ており、巨大な建物を建てるには便利な立地だった。

巨大な修道院建築が見えてきた。



大航海時代のスペイン・ハプスブルグ家の王フェリペ二世が1563年から建造させ、1598年には、自身が71才で没した場所。
巨大な建物の全体の形は聖ロレンツォが殉教した焼き網の形を模している。ガイドさんが手にしている全体図入口にも同じ形がデザインされている

ネット辞典より写真を拝借
国王になったばかりの頃、若きフェリペ二世がはじめての戦勝をあげたのが「聖ロレンツォの日」であった事を記念しているのだそうな。

中央に教会を挟んで、右が今も修道院、左には学校。子供たちが「ニーハォ~」と声かけてきた 中庭・教会前
ここから先は撮影禁止。
巨大ではあるが、全体としては簡素なつくりで、まさに修道院。
「神の為の宮殿をつくり、そこに私の場所が小さくあればよい」王は建築家にそんな風に注文したのだとか。

強大な帝国を支配し何でも思うままに出来ただろうフェリペ二世だが、晩年は修道僧の様に暮らし、最期の床から教会の主祭壇が見られるように寝室の壁を動かさせたのが最後の贅沢だった。

祭壇を挟んで向かい側の部屋には最期を看取る事になる長女のイサベル・クララが住み、小さな窓越しに父の様子を伺える造りになっている。

宮殿の地下は、フェリペ二世の父カルロス一世以降のスペイン王家の墓所になっている。王と世継ぎを産んだ妃が眠る棺がぐるりと囲む八角形の部屋がある。退位した前国王の父は「王の息子であり、王の父であったが、王ではなかった」という人物だが、例外的に場所が与えられていた。

***
エル・エスコリアルを一時間半ほど見学して、今度はさっき見えていた巨大な十字架へ。
ほんの十五分ほどの距離だが、たくさん居た観光バスもここには全く寄らない。

第二次大戦の前から1975年の死去にいたるまでスペインの独裁者だったフランコ将軍・総統にたいしては、国民は複雑な思いがあるだろう。

また、敷地入口で高い入場料を取られるのも足を遠ざける原因か門を入ってしばらく走ると、巨大な十字架がより近づいて見えてくる。

ふもとの駐車場から見上げる。高さは150mに達する。ケーブルカーの線路があって、さらに十字架の腕木の部分までエレベーターが通っているそうだが、今日は動いていない

正面は何千人も入れる広場になっている。そこから見上げる十字架の巨大さといったら…小さく映っている人物と比較してみてください。

正面入り口から十字架の真下まで、岩山をくりぬいた身廊になっている。高さは10メートル、奥行きは120m以上。奥へ至る左右にはキリストの生涯を描いたタピスリーの他に、さしたる装飾はみあたらない。

この岩山は市民戦争に負けた共和派の捕虜たちが強制労働によって掘らされたものなのだそうだ。そんな場所を「敵味方の区別なく犠牲者を弔う」とは言えないだろう。

いちばん奥、巨大なモザイク画のあるドームの下に、フランコ総統自身の墓がぽつんとあった 彼自身は、ほんとうにこんな場所に葬られたかったのだろうか? 直前に見たフェリペ二世のエル・エスコリアルとはあまりに違う雰囲気だ。あそこは簡素ではあるが、本人の愛情・執着があって建設されたなのだと感じられたが、ここはそうではない。

二十世紀にたくさん存在した社会主義国家や全体主義国家、現代でも生き延びている国もあるが、それらの国で見かける巨大モニュメントが持っているのと同じ雰囲気を感じさせる。

戦勝者として、独裁者として、なんらかの記念碑を必要としていたのかもしれないが、フランコ総統がひとりの人間としてこんな場所を選んだようには思えなかった。

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エールフランスのエスプリ

2015-04-16 14:11:39 | フランス
《手造の旅》スペイン小都市めぐりは、羽田発夜の11時のエールフランス便を利用した。
日本からスペインへの直行便がない現在、朝早くにパリで乗り継ぐのが最善と判断のであります。
**

エールフランスにしばらくぶりに搭乗。羽田線はどの航空会社も最新機種を投入している。
恒例の安全に関してのビデオが、フランス風に一新されていた。
義務感で見せられるつまらないビデオではなく、フランス風にファッショナブルで洒落っ気がある。

これは「非常口を確認してください」というシーン


こちらは「大きな電子機器は前のポケットには入れないでください」というシーン。この後に本と見えたものは実はPCだった、というのが写ります。


「安全ビデオ」を乗客に楽しく見てもらおうという試みは、小松の知る限りエンタテイメントの国アメリカの航空会社からはじまった。アメリカのテレビで活躍する誰でも知っているキャラクターをつかってこんなふうに。


こういう努力、まだ日本ではほとんど行われていなようです。が、日本でも取り入れられて行く事は必然、どんな風になりますやら。得意のMANGAをつかって?いずれにしても、変なジャパニズムには陥らないでほしいものだなぁ、とおもいます。

****
午前四時前にパリの空港へ到着。
ターミナルを移動する途中で見かけたコピー機こういう事務機器はいつまでも古びた面白みのないモノを使い続けている印象のフランス。

さて、そろそろ夜が明けてきたマドリッド行の便は朝七時過ぎです。
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