旅倶楽部「こま通信」日記

これまで3500日以上世界を旅してきた小松が、より実り多い旅の実現と豊かな日常の為に主催する旅行クラブです。

大阪のザ・シンフォニーホールへ

2018-03-11 07:23:11 | 日記
大阪にこんな立派なホールがあるなんてしらなかった。
大きすぎず、見やすく、聴きやすい場所である。正面のパイプオルガンの雰囲気はウィーンの学友教会ホールを思い出させる↓

今日の出演は大阪市民管弦楽団。
一月のドイツ、オーストリアへの旅でご一緒した方がそこでチェロを弾いておられる。
さらに、この方の本業は金属加工業で、世界のプロ演奏家にも愛用されるチェロのエンド・ピンを製造しておられる。
※youtubeにてエンドピンで音が変わるという例をだしてくださっております

※この旅、ヴィーンはオペラ座で「ドン・ジョヴァンニ」、ベルリンではフィルハーモニーでモーツァルトとサンサーンスのヴァイオリン曲+ラヴェルの歌劇「子供と魔法」を見たのだが、この方といろいろお話してから聴いたことでずいぶん楽しさが増した。
もともとは小澤征爾氏が出演予定で彼自身の選曲によるものだったが、早々に代役にミッコ・フランクとということでツアーは催行された。結果はたいへんおもしろかったが、これについてはまた別に書きます。

今日の演目は

3月11日に合わせた曲のように見える演目だが、もともとはそれ以前からある楽曲。吹奏楽の世界では大変有名なのだとしった。
前半二曲は分かりやすかった。

後半のラフマニノフは、メロディアスでロマンチックな雰囲気。ロシア的に?冗長なところはあったにしても。
指揮の井村さんは熱くリードする方で、楽団全体の真剣さが伝わってきた。
皆さん、アマチュアなんですよね?こういう場があって、それにむかって練習を重ねてきたに違いない。

アンコールに「花は咲く」が演奏された。関西は阪神淡路震災を経験しているから、東日本の震災にも他人事でない強い共生意識を感じている方が多い。ラフマニノフのあとに、会場皆の心を暖かくしてくれる演奏だった。

演奏後に楽屋口でチェロを演奏したMさんとお話した。あきらかにほっとした晴れやかな顔をしておられた。
ああ、わかる。今日はひとつの生きてきた成果を感じる日、なのだ。
ジャンルは違うにしても同じアマチュアとして音楽を続けている身として、続けていく事・披露する場を持つことの重要さをあらためて感じる。



小松も、9月9日、久しぶりの「こま通信」LIVEミーティング、がんばります




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天草から長崎へ、稲佐山の夜景に間に合う

2018-03-02 20:20:20 | 国内

地図で見ているだけではなかなか様子はわからない、景色は良いが道は時々狭くなる

行政区は苓北町に入る↓

この先にある半島には富岡城跡があり、ここが天草統治の中心だったのだそうだ。

天草の乱では、一揆勢がここを落とせずに撤退して海を渡り、空になっていた原城に籠るところから最終局面へむかうのだ。

手前に火力発電所があるようだ↓

※この天草の絵地図ドライブマップは今回たくさん集めた紙の観光資料のなかでもっとも役に立つものだった
紙の資料は各自治体こぞってつくっているが、隣接する自治体で似たような雰囲気のものも多く、それならばもう少し広域でまとまったものをひとつ製作するのでもよいのではないかと思ったりした

火力発電所の煙突のすぐ横をとおる↓


長崎側雲仙へ渡るフェリー乗り場・鬼池港に到着。天草四朗の像がある↓


このフェリーは三十分は乗るのに食べものなどなにひとつ売っていない。十五分ほどの桜島フェリーにはSNSで話題になるうどん屋や「紅はるか」がおいしい焼き芋屋があったのに↓


雲仙・普賢岳が近づいてきた↓


長崎駅近くで車を返し、駅の歩道橋を渡って近くのホテルへチェックイン↓

夕暮れまで一時間ほどのタイミング。天気も良いし、日本三大夜景のひとつ稲佐山へいってみたい。
ホテルに訊ねると三十分後にバスガイドさんつきのオプションバスがでるというので利用した↓


おお、すばらしいタイミング↓




「現役で働いている世界遺産のクレーンが見えますよ」とガイドさんがおしえてくださった↓

このカンチレバー式のクレーンは1909年に設置されたというからもう百年以上経つのだ
※こちらに詳しいページがあります


1986-7年、小松がみっちり国内添乗をしていた頃稲佐山の夜景を見た。あれ以来、三十年ぶりの来訪だった。
こんな立派な展望施設は、なかったですよね?

月がだんだんと明るさを増す



昨今は毎年投票で「世界の夜景」をランキングするのだそうだ↓

今年は稲佐山の他に 香港とモナコ。モナコの夜景って見ておりません(^.^)

ホテルに戻り20時から簡単卓袱料理で今日の〆

懐石と違っていっぺんにならべられて好きな順番で楽しめるのもよい










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畳の崎津教会

2018-03-02 15:15:15 | 国内
※内部の写真は載せておりません
天草下島の南部の小さな村、車道から路地へ入る

静かな平日の午後、店の中に談笑する年配の方々がちょこっと見えた。
路地の向こうに見えてきたゴシックの塔が教会にちがいない↓

視界が開けると、小さな村に不釣り合いなほど立派な教会がそびえていた↓

五島列島や平戸に多くの教会を建てた鉄川与助の名前がここでもでてきた

昨年から五島や平戸をまわりたくさんの教会を訪れていたので、ただ世界遺産候補の古い教会があるというだけではこの崎津へ来ようとはおもわなかった。
来訪のカギは、この教会が畳敷きのまま使われている教会だということ。
先月訪れた、京都・天橋立近くの宮津教会が偶然畳敷きだと知って興味をもったのだが、宮津教会はあいにく修復中で中は見られなかった。
※こちらに宮津教会外観の写真と細川ガラシャについてのお話 載せました


崎津教会はミサなどの行事が行われていなければ誰でも入ることができる。
堂内は明るい光が差し込んでいた。板の床に畳が敷き詰められてその上にパイプ椅子がならべられていた。
あとからきいたきいた話だが、信者の方々の年齢もあって椅子の方が楽なので数年前からパイプ椅子をならべたのだそうだ。
実際に使われているのだから、使う方々が使いやすいかたちであるのは当然である。

★教会は洋風で椅子が並んでいるのが当然のイメージがある。
だが、日本では大事な場所に入る時には靴を脱ぐ。寺や神社の内陣がそうであるように。

明治期に禁教が解かれた後、一般の信徒たちは祈る教会などなかった。それぞれの村で代表の家へ集まって祈るのが通常だった。
そこでは靴を脱いで畳で座るのがあたりまえ。やがて、お金を出し合って新しい祈りの場=教会をつくった時にも、靴を脱いで畳の上に座って祈る習慣が自然に受け継がれた建物になった。
多くの教会では後の改修や建て直しに際して「洋風」になって畳をなくしてしまい、昔の畳の教会はほとんどなくなってしまった。

この崎津教会にも前身の教会があった。現在の立派な教会が出来る前に、一般住宅のような教会があった。その模型がさっき訪れた「天草コレジオ館」に展示されていた↓

この建物があったのは、なんと、すぐ近くの神社の入口すぐ横だ。観光案内所の方に指さしてもらったのが、下の写真の鳥居をあがって左側↓

ここには修道院まであったのだそうだ。今は立て替えられたが教会の関係の建物である↓

禁教の時代、隠れ切支丹たちはこの神社の氏子として生き延びてきたのだった。

神社から崎津集落を見晴らす事ができる↓

立派な教会が作られる前そこには庄屋の邸宅があり、年に一度、切支丹ではない事を確認する「絵踏み」の儀式はそこで行われていたのだそうだ。
現在教会の祭壇がある場所を、意図的に「絵踏み」が行われていた場所にしてある。
世界遺産認定を目指す日本が、ユネスコに示した「歴史的な意義」のひとつになっている。
※クロアチアのスプリトにあるドミティアヌス皇帝の墓が、今は彼が迫害したキリスト教の聖人ドムニウスのための教会になっているのを思い出した

この場所を教会を建設することを強く希望したのはこの地のキリスト教復興に力を尽くしたハルブ神父。
彼の墓は前出の神社参道わきにある↓

日本の教会は西洋と違って堂内には墓をおこうとしない。これも畳文化の影響かもしれない。
祈りの場に墓を置かないという基本方針は、イスラム教のモスクのようだ。
モスクも靴を脱いで入り、床に頭をつけたりするから、そこに墓をおきたくはなかったのだろう。


***

穏やかな崎津の入江を見ながら、天草下島の西海岸を北上する

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九州西部を走る旅~天草(本渡、崎津)

2018-03-02 15:00:00 | 国内
夜明けに誰もいない温泉へ行った

ここはホテルとは別館になっていて、昨夜は地元の人もけっこうやってきていたが、今は誰もいない。夜空高く輝いていた月は去って、どんどん明るくなってきた↓

朝食場所遠くに廃船のように見えていたものは岩礁だったのか
部屋からの景色は南国リゾート↓

バラエティの撮影かな
ロビーまわりも雰囲気がよい↓少しゆっくり出発するのがよい

**
今日は長崎まで走るが、雲仙へ渡る前に天草をもっと見ておきたい。
このホテルがある本渡(「ほんど」と読みます)市内にも見ておきたい場所がいくつも見つかった。
そのなかで、訪れてみていちばんの収穫だと感じたのがこの「祗園橋」↓




なんと天保三年(1832年)の建造↓

長さ28.6メートル、幅3.3メートル 45本の石柱で支えられている

この場所は天草の乱(1637-8)の初期に、近くの本渡(ほんど)城を攻める一揆勢と地元藩のあいだで壮絶な戦のあった場所。
屍で流れが堰き止められたと伝わる。鎮魂の詩碑がある↓


敷き詰めらた石は隙間はあるがしっかりしている。なんども補修を重ねて大事に守られてきたのだ↓

二百年近く前の人々と同じように渡ることが出来るのは、ここがさほど観光地になっていないからだ。
人があふれるようになり、誰から川に落ちたりしたら、「あぶないから通行禁止にしましょう」となってしまうかもしれない。

すぐわきに新しい公園が、まさに整備されているところだった↓

これから、変わってゆくのかしらん。
***
役所の前にあった銅像、鈴木重成と僧侶の兄正三、養子の重辰(しげとき)だった↓来月の五島列島の旅へ参加される方からちょうどこの名前をきいていたのでピンっときた。

天草の乱の後、代官としてこの地を治めた人物。
前任者が石高を割り増しして検地したために重い年貢に苦しむ農民を捨て置けず、幕府に何度も直訴。
ついには江戸で嘆願の割腹自殺をして、幕府に再検地を実現させたという人物。
これにより石高は四万二千から二万一千に半減され、農民は彼ら三人を神として祀ったのだった。

****
「天草コレジオ館」を訪問↓

天草にはたくさんのキリシタン記念館があるので、どこを訪問しようかと迷ったが、小松と同じく小さな旅行会社を運営しているT氏がここをつよく勧めた。「館長の話をぜひ」とのことだった。あ、ちょうど小崎館長がいらっしゃった。時間いっぱいいっぱいまで楽しく解説をしてくださった↓下はこの博物館でいちばんの見ものとされるグーテンベルグの印刷機をドイツで復刻させたもの。あのルターの聖書を印刷したのと同じ型なのだという。ほほう、おもしろい↓

コレジオ館のあるのは天草下島の南のはずれで、キリスト教が浸透し始めた16世紀末でも「いなか」ではなかったかと思ったが、歴史的にむしろそれが幸いした。 つまり、秀吉の1587年伴天連追放令の後に、平戸や長崎といった目立つ場所からこの川浦や崎津といった隠れた入江にコレジオと熱心な信者が移ってきたのである。 彼らが学ぶための本をこの印刷機で量産していた、ということか。
ワインのプレス機を応用したというこの機械は今でも現役で、時々印刷体験をさせてくれるのだそうだ。

当時の南蛮船の模型↓

羅針盤の複製↓

館長は分かりやすく説明してくださった。
「歴史がおすきだったんですね」と訊ねると、まったくそうではなくむしろ理科系の人だったのだという。
退職後の再就職で偶然「コレジオ館」に配属され、まったく興味のない場所だったのからはじまり、だんだんと面白くなり、今では語り部として彼を指名する人も多くなったそうな。二年の任期のあいだで、この「コレジオ館」の評価をぐっと高めたと言えるだろう↓

見学地というのはどこに行くにも、解説する人が重要なのであります。

2018年三月で異動になるそうだが、是非関連ある場所で仕事を続けていただきたいです。




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九州西部を走る旅~熊本から天草

2018-03-01 21:33:37 | 国内
桜島の横から朝日が昇る↓

朝食も多彩だった。地元の知覧茶をつかった茶碗蒸↓

青空だときのう見た観覧車の色も鮮やか↓籠島中央駅前の群像は、江戸末期に国禁を犯してイギリスへ渡航した薩摩の十九人↓

五代友厚、森有礼など、全員が偽名を使っていた。



今日は、鹿児島から熊本まで三つの違う列車に乗ってみようとスケジュールを考えた。
最初は九州新幹線で鹿児島⇒新水俣↓

日本の新幹線はほんとうに良くできている。つい最近イタリアの高速鉄道にのったところだから、よけいにそう感じる↓これだけ広い座席幅があり、なおかつ全部が回転する座席なんて驚異的↓

一時間もかからずに新水俣に到着。ここから平成14年に第三セクターとして開業した「肥薩オレンジ鉄道」に乗換↓
がらんとした新しい駅↓

改札を出るとすぐに在来線の線路を渡りホームに入る↓改札はない

やってきた列車に乗り、整理券をとる↓

バスと同じシステムである↓

「水俣」という地名をきくと、どうしても「水俣病」が思い浮かぶだろう。
たしかに1950年代末からの公害で、行政指導により漁業は一度壊滅してしまった。
が、努力の末に1997年に安全宣言が出され、現在では漁業も復活している。汚染された魚を徹底的に取り除いたので漁獲量は往時の三分の一程度しかないのだそうだが。

新幹線がトンネルばかりなのに比べ、在来線は海辺を走り風景が楽しめる↓天気がさほどよくなくても

八代市は日本三大急流の球磨川の水を利用した工場がたくさんある。「八代臨海工業地域」というのだそうだ。
日本製紙の工場が大きい。 メルシャンの工場もあるというので調べてみたら、こちらは焼酎を扱っていた。なるほど。

八代駅でオレンジ鉄道から再びJRに乗り換える↓乗継の短い時間だが駅前をひとまわり↓

ほんの短い時間でも、自分の目で見たモノの印象は強烈に残るのです。

巨大な柑橘類の乗ったポールがいやでも目に付く↓

これは「ばんぺいゆ」といのだそうだ↓
※こちらに八代商工会議所のがんばっている晩白柚の商品解説のページがありました

熊本までJRの在来線↓

車内のデザインは様々なんですね↓


熊本駅到着


***
車を借りて走り出す。今回は熊本市内をゆっくりまわる時間はとれないが、熊本城が地震でどのような状況になっているのかだけは見ておいてほしかった。
ニュースで報道されているのを耳にしていてもそれはどうしても「他人事」である。
自分で足を運んで目にするとそれは一瞬で「自分事」になり、ニュースの情報とは比較にならない理解ができる。
まだまだ修復中の天守閣↓

まだまだ無残な石垣↓




****
天草を目指して走り出す。

ちょっと南国風な海岸線、島々繋ぐ橋をわたって行こう↓


調べていて「本物のオランダ村があります」と情報があった三角港へ行ってみることにする。
まずは東三角の「海のピラミッド」↓ここは普通の港ですね

待合室ですね。天井までぐるぐる歩いてあがることが出来る↓

*****
行きたかった★三角西港↓

★こちらにもう少し書きました

三角西港が思いのほか面白くて時間をとられてしまった。
「天草史郎メモリアルホール」↓

ざっとご案内いただいたがこちらも一時間ではたりません

******
今日のホテルはリゾート気分↓








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