旅倶楽部「こま通信」日記

これまで3500日以上世界を旅してきた小松が、より実り多い旅の実現と豊かな日常の為に主催する旅行クラブです。

デリーからリシケシへ~1988インドの旅より

2022-03-07 22:35:00 | インド
アナログ写真を見つけた。
まちがいなく「二度とできない旅」で、
「いちばんたいへんだった旅」かもしれない。

インドに到着した翌朝↑部屋の天蓋付のベッドでセルフタイマー撮影↑

↑ホテルの窓の下を羊の群れが通っていった↑
※羊の背中に所有者の色がつけられている。

インドは人工衛星を飛ばす先進国でもあるが、
※2ルピーのお札↓

高層ビルの谷間に羊が遊牧され、
道路の中央分離緑地で生活する人もいる。
これは実際に訪れてはじめてわかる。
華麗に踊るインド映画の画面からはきれいに排除されている。

今回の旅、最初の目的地はガンジス川の水源ガンゴトリ。

途中の「カフェ」で注文するチャイ(ミルクティ)はガンガンに沸騰させたお湯を使う。
そうしないと衛生的に安心できないから。

お店のグラスが心配なので↑小松は自前のカップをいつもベルトに通していた。

↑デリーから北へ走るが初日はガンジス川のほとり、リシケシで宿泊した。

宿泊したホテルの外へでると、あっという間に子供たちにとりまかれてしまった。

リシケシはビートルズが1968年に滞在した。
世界中からヨガを学びに来る人々が集まってくる。
外国人観光客についていくと「なんかもらえたりする」と学習してしまったのかも。

「こらこらもう帰んなさい」↑
ホテルのスタッフが柵の中から子供たちをたしなめていた↑

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「ハッサンはいずれ帰る」再録

2022-03-03 08:35:18 | 旅行

ロシアがウクライナに侵攻した今、
2002年にドイツ・ハイデルベルグのホテルでポーターをしていたソマリア人のハッサンが言っていたことを思い出す。
2001年に公開された映画「ブラック・ホーク・ダウン」を観て、
※戦闘ヘリコプター ブラック・ホークが墜落して乗組員が虐殺された1993年の事件をもとにしている
ソマリアはアルカイダが暗躍するコワイところかと思っていた。
はじめてソマリア人のハッサンと話すまでは。



『「お前の国は危険だ。次に爆弾落としてやる」なんて言われたらどう思う?
アルカイダなんて見た事もないよ。どこにいるのか言ってみろよ。』
モガディシオ出身のハッサンはそう言った。

ドイツ・ハイデルベルグのとあるホテルにいつもにこやかに良く働く黒人がいて、
私は彼を見覚えていた。
重い日本人のスーツケースをたくさん運びながら
「はいぃ、コニチワぁ、ゼンブでにじゅうごこ、ソウデスネェ」
なんてニコニコ喋っている。
何年か毎に見かけるがその度に日本語が上手くなっていく。

ある日の夕方ホテルへ帰ってくるとそのハッサンが花壇に水をやっていた。
「君はどこから来たの?(英語で)」という私の質問に、
はじめは「私はドイツからきた!そうでしょ」と笑ってはぐらかしていた。
しかし私が何度も真面目に訊ねると、やっと真面目に答えた。
ハッサン「どこから来たと思う?」
小松「アフリカでしょう?」
ハッサン「モガディシオだよ。知ってるかい?、
   私はイスラム教徒だ。でもアラブ人じゃない。
   もう15年ドイツにいる。
   10年、ずっと税金を納め続けてきて、ドイツ国籍もとった。
   こっちで結婚した。」

ソマリアという国についてその時小松が知っていたことはわずかだった。
首都はモガディシオ。
国連の平和維持軍が駐留して、暫定政府を支えているということ。
アメリカが一時「飢餓から人々を救う」という名目で侵攻したけれど、
多くの犠牲を出して撤退した。
こんな事ぐらい。
過去の歴史も民族も知りはしなかった。

ハッサンは話しながらだんだんとエキサイトしてきた。
「アルカイダなんていないよ。見た事も無い。
それなのにアメリカは我々の国を爆撃しようというんだ。『平和の為』といってね。
ブッシュはちょっとここ(アタマをさして)おかしいよ。
ソマリアがアメリカに何かしたことがあったか?信じられないよ」

アメリカ軍が侵攻したら、
モガディシオの普通の人々は、
きっとアフガンの人のように、
突然わけもわからないで爆撃にさらされる。

ハッサンの親戚=私たちと同じような普通の人々が突然に戦場に放り出されるのだろう。
自分の家に突然爆弾が降ってくるのでは、どんな相手にでも憎しみを覚えずにいられない。

「そうだろうなぁ、ハッサン。君がアメリカを憎く思うのもわかるよ」

帰国後、ソマリアという国をしっかり認識していなかった私は、少々調べてみた。
すると、ソマリアは私が思っていたよりも、未だに苦悩深い状況にあることが分かった。
そしてなお、今日の日本の新聞にはモガディシオでの戦闘の事が載ってさえいた。
そうか、ソマリアはハッサンが国を出た15年前とくらべても状況は少しも良くなっていない。
少なくとも外国人にとって未だ相当に危険な状況である。
一般の人々とて、いつ内戦に巻き込まれるか分からない。
ソマリアは、映画「ブラック・ホークダウン」のモデルになった事実のように
充分アメリカとも戦った。ソマリアはとても普通じゃない。
だからハッサン、君もこうしてハイデルベルグに15年いるんじゃないか。

「ソマリアはとても人が住みたくなる国じゃないんだね。」
ハッサンはずっとドイツに住むのだろうと、
私は勝手に思い込んでいた。

小松「ハッサン。君はソマリアへ帰るのか?」
ハッサン「もちろんだ!なぜかえらないと思うんだ?」

そうか、どんな祖国であっても故郷に帰りたい。
今彼のいるドイツの方が、
祖国ソマリアの20倍も100倍も豊かであっても。

これから先ソマリアのことを耳にしたら、
私は必ずハッサンの事を思い出すだろう。
彼は私のはじめて出会ったソマリア人である。



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2000年7月31日の板門店ツアー

2022-03-02 08:53:24 | 旅行
当時フィルムカメラで撮影していたものをみつけました。

北朝鮮側の「宣伝村」には高さ165mの国旗掲揚塔がそびえていた。
国旗は30mもあるそうな。

「宣伝村」とは、北朝鮮側が韓国側の人々に見せるために建設したといわれている無人の街。
建物は「はりぼて」で、人が住んでいない。
なぜそれとわかるのかというと、
「窓の灯りがいっせいに点くのです」とのこと。
この最前線では
南北関係の状況によって、南側に聴かせるためのプロパガンダが放送されたりビラが飛ばされて来たりするのだそうだ。

小松が一度しか訪れていない韓国だが、
その時のツアー主催者に「板門店ツアー」を提案して組み込んでもらうことができたのは幸運だった。

外国人のみ参加可能。ロッテホテルから朝九時半に出発。
ソウルから北へ約一時間で、国境ではなく停戦ラインに近づく。
統一展望台でイムジン河の向こうの北朝鮮を遠望。
川を越えてDMZ(非武装地帯)に入る。

DMZには1953年以来国際監視軍が駐留している↑
政治情勢により国も入れ替わるし人数も多い時は五百名だったが、今は十名程度なのだそうだ。
実質的にアメリカ軍が管理している。
昼食もアメリカ軍の施設にあるレストランにて。

こんなメニューだった↑


北朝鮮側の建物が見える↑↓北朝鮮側からも観光客が来ているようだ。

手前の水色の平屋は南北両方にまたがって建てられていて

韓国側の扉から中に入ると

部屋の中の北朝鮮側にサングラスをかけた兵士が微動だにせず立っていた↑
↑窓の外の二人も北朝鮮側の兵士。
↑韓国側との雰囲気の違い…
「この部屋の中だけは北朝鮮に行くことができますよ。北朝鮮の兵隊さんに触ってはいけませんが、いっしょに写真を撮ってもかまいません」

おそるおそるいっしょに写真を撮る子供たち
小松も撮っちゃいました
「向こう側のドアに向かって走り出したら亡命者になります」
冷戦時代、北からやってきた東欧の観光客が走り出して亡命した事件があったと解説された。

↑後に何度もニュースで見ることになった場所


休戦協定から十年の記念碑↑
当初、このDMZでは両国軍隊が自由に行き来していたのだが、
1976年にポプラの伐採をめぐって起きた事件によって厳しく分けられることになった。

そのポプラの木は↑「帰らざる橋」の近くにあった。
※捕虜交換に使われた橋なので「ここを渡った者は帰ってこない」からつけられた呼び名

8月18日、南北両軍が入り混じって橋の近くの整備をしていた。
アメリカ・韓国の兵士が橋の近くのポプラ並木を伐採しはじめると、
北朝鮮兵士が斧をうばっていきなり切りつけアメリカ兵二名が殺された。
上からの指示なのか?何があったのか、真相はわからない。

↑そのポプラの木があったところに建てられた記念碑↑
**
DMZであってもお土産屋があって、
DMZに張られていた有刺鉄線十センチほどが額に入って売られていたのを思い出す。
記念の缶バッジをくれたのがアメリカらしかった。

二十二年前にただ一度訪れた韓国での忘れがたい記憶である。













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