旅倶楽部「こま通信」日記

これまで3500日以上世界を旅してきた小松が、より実り多い旅の実現と豊かな日常の為に主催する旅行クラブです。

《手造の旅》奈良桜井大宇陀~室生寺、安産寺

2022-04-13 17:43:04 | 国内
花吹雪の室生寺。本堂前の池越し、左奥に五重の塔。

五重の塔前の階段も貸し切り状態(^^)


高さは16mちょっと。
こぶりだが、この場所にちょうどよいサイズである。
**

高野山が女性の入山を認めていなかったのに対し、室生寺は古来女性の参拝をみとめてきた。
徳川綱吉の母桂昌院はもっとも大きな寄進者で、その墓のひとつもここにある

↑仁王門は昭和四十年のもの↑
くぐって、モリアオガエルのいる池を過ぎると

左手に「鎧坂(よろいざか)」がそびえている↑
武士の鎧の下の方に垂れた部分に似ていることからつけられた。
↑階段の手すりは昭和天皇行幸の際にとりつけられたそうだ。

のぼりきると、正面に●金堂↑中には平安から鎌倉期の見事な像※お寺のサイトから見ることができます

↑この堂自体が国宝↑ひさしの部分を江戸時代に増築したことがよくわかる。
それが必要なほどの人がやってくるようになっていた、ということ。

金堂に向かって左に↑●弥勒堂
奈良時代に興福寺からやってきた修円がこの堂も移築させたと伝わる。
※室生寺最古の奈良時代の木像にリンクします
修円は八世紀末に皇太子(後の桓武天皇)が病気になり、室生で平癒祈願をした五人の僧のひとり。
室生は雨乞いに効果のある龍神が住む洞穴があった。

↑金堂に向かって右奥にある赤い祠はその龍の穴の方向を拝むためにある。
龍はもともと猿沢の池に住んでいたけれど、采女(うねめ)が身投げしたのでここへ逃れてきたというお話
※猿沢池の采女の話はこちらにあります

金堂左手の階段をのぼると●本堂(灌頂堂)があり、中にはインドの神様のような如意輪観音菩薩が安置されている。
冒頭写真の小さな池は本堂前に位置している。

階段をのぼりきって五重の塔を見上げる。
右をみると小さな赤い廟がある↓

奈良興福寺からやってきた前出の修円のもの。
彼が実質的に室生寺を興した人物なのだろう。
承和二年(835)に室生寺で没し、一千年も(修復され・入れ替わってきた)塔を見上げているのだ。

参道でヨモギ入りもちもちどら焼きを食べて、安産寺へむかう。
****

道の駅「室生」から道を渡って電車の線路をくぐり右手にすすむと

★安産寺が見えてくる。バスではとても近づけない。
※光が変わると命がふきこまれるよう、こちらのブログに書きました
ここは住職がいるお寺ではなく、地域の人が伝えてきた一体のお地蔵様を祀る村の集会場。
毎月九日だけ開けて村人が集まるが、それ以外は連絡して開けていただく。

明治三十七年に建てられたお堂=集会場で↑待っていてくださった。


※お地蔵様ははじめ↑この写真左手・廊下の入口になっている場所に置かれていた↑
↑正面の仏像はこの集会場がつくられたときに、廃寺となった正福寺から移されてきた。

テレビで取り上げられた時の番組ビデオを二十分ほど見せていただくとおおよその歴史がわかる。
伝承が伝えるように上流の室生寺から増水した川に流されてきたとは思えないが、
もともと室生寺の金堂にあったお地蔵様だったことははっきりしている。
昭和十五年に、金堂に残された光背と高さがぴったり合うことが発見された↓
※こちらのページに光背と像が合体展示されたお姿の写真が載せられています

「国宝級の像を村の無住のお堂にはおいておけない」
文化庁が奈良の博物館に持って行ってしまい、村人たちはおおいに悲しんだ。
返還の陳情をすると
「盗難や火災に遭わない安全な収蔵庫があれば戻します」と言われた。
村人たちは私費を出し合って現在の収蔵庫を用意した。

↑もと置かれていた場所の奥が開かれ↑コンクリート製の保管練に続いている。

ゆっくり拝ませていただいて
ふたたび坂をおりて線路をくぐり車にむかう。


夕暮れ前に宿に到着。
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《手造の旅》奈良桜井大宇陀~牧野古墳、馬見古墳、百済寺

2022-04-13 11:54:44 | 国内
新大阪駅から一時間ほどで
「牧野古墳」に到着 ※極寒の2月5日の下見が役にたった

広陵町のガイドさんと共に石室に入る

圧倒的な巨石に囲まれた空間

入口横穴と玄室をつなぐ部分の、長さ七メートルの最大石が要↑
数多の地震にもかかわらず崩れずに千数百年。

ランチは馬見古墳公園で柿の葉寿司のお弁当を
抗菌作用のある柿の葉っぱに巻くことからはじまった。
お寿司のおいしさは、脇役の米で決まると思う小松です。

座ったベンチにある石棺も

ホンモノだった↑北今市古墳出土の六世紀ごろのもの↑

桜は先週終わったが、チューリップが盛り(^^)

橋を渡ると、日本で十番目の大きさの巣山古墳が近づいてくる。この辺りには大小二百に及ぶ古墳があるそうな。

↑④の古墳は道路建設で真っ二つに破壊されているのがわかる。
古墳だらけのこのエリア、全部をまるまま保存するのは無理だったのでしょう。

***広陵町役場付属の展示室へ寄る。主に牧野古墳と巣山古墳からの出土品を収蔵展示してある。

↑イノシシは古代から日本に居た動物↑


****
●百済寺は、名前のとおり朝鮮半島からやってきた集団が住んだ場所らしい。

現在残されているのは↑鎌倉時代の三重塔。
昭和6年(1931)の解体修理によって、寛正4年(1463)に木瓦瓦葺きを瓦に変えた記述がみつかった。江戸時代にも二度の改修をうけている。近づいて見ると古くはあるが大切にされている塔だとわかる。

↑弘仁14(823)年に聖徳太子の建てたこの寺が荒れ果てているのを嘆いた弘法大師が掘らせたという梵字のカタチをした池↑ほかにも近くに二つの梵字池があるのだそうだ。

↑本堂は「大織冠」と呼ばれ、談山神社にあった建物を移築したと伝わる↑
「大織冠」は藤原鎌足が賜った冠位十二階最上の位である。

午後は室生寺へ向かいます。
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《手造の旅》近江長浜と比叡山~西塔 「担い堂」、最澄の廟

2022-04-08 16:15:47 | 国内
↑「弁慶の担い堂」前↑

比叡山横川(よかわ)地区から西塔へ移動する道から琵琶湖と大津市が見晴らせた。




↑「居士林」は現代まで続く修行道場↑一般の人も参加可能※リンクします
暖房もなく、たくわんで器をぬぐって食べるような体験だそうだ

駐車場から参道への入口に「伝教太師廟 浄土院」と書かれている。最澄は世情を救うべく今もここに居るとされ、毎日膳を上げ下げしている。高野山の空海のようには知られていないが、最澄も同じように扱われている。浄土院ものちほどぜひ訪れたい。

「弁慶の担い堂」が見えてきた。

左の「常行堂」、右の「法華堂」共に1595年の建造。
剛力の弁慶なら二つの建物をつなぐ廊下↑を肩に乗せて「担える」というイメージ。
比叡山が世界遺産に認定される時に、この「弁慶の担い堂」の真ん中を抜けて本堂への坂道↓が高評価だったときいた。

間を抜けて坂をくだっていったところに見えてくる「転法輪堂」は↓比叡山で最も古い建物↓

信長の焼き討ちを逃れたのではなく、もとは大津にある三井寺の金堂だったのを秀吉が三井寺を廃絶した後に移築された。三井寺廃絶の理由は、秀吉の姉の子・秀次の謀反計画と通じていたからとされる。
※建物自体は南北朝時代の1343年の建造


坂をおりてゆく途中に↑真盛上人の生前墓=「寿塔」があった↓

↑ここには書かれていないが真盛上人は「天台真盛宗」を興した人。夢で最澄に出会い、源信の「往生要集」を手渡された。
1486年にエリート僧の暮らしを捨て、源信ゆかりだが荒れ果てていた西教寺に入った。
2019年桜の季節に訪れた時に知った「法難」のエピソードを思い出した。
※西教寺の桜の日のブログにリンクします

結果的に新派をはじめることになった真盛上人は、比叡山から歓迎はされていなかったのだろう。
志を貫こうとするとき、かならず反対する勢力がある。

少し歩いて、

最澄の廟がある「浄土院」に至る↑

↑内部には入れない。
なぜなら、今も生きている最澄さんをお世話する「侍真職(じしんしょく)」がいる場所だから。

さらに、千日回峰よりも厳しいとされる「十二年籠山業」をする場である。
※2021年に達成された方のインタビュー「和楽」のページにリンクします
戦後七人しか達成できていないのもわかる。

「浄土院」へ↑東塔からのこの道が正式なルートだった。
車で楽に移動する時代には本質が見えてこない。

最後に東塔も、少しだけ見学。

↑入口の土饅頭はなんと、信長の焼き討ち犠牲者のためのもの↑※つくられたのは二十世紀末です

本堂の前にある三つの石の印は?
ここで行われる問答の時、対峙する二者と審判が立つ場所を示している↑

今回、大手ツアーが必ず訪れる「根本中堂」は行かない↓

見学コースはあるが↑2026年ごろまでの大改修工事でまるごと覆われている↑

横川地区、西塔地区でじゅうぶんに見応えありました(^^)
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《手造の旅》近江長浜と比叡山~横川(よかわ)

2022-04-08 10:10:49 | 国内
「おみくじ」の考案者、魔除け祈祷で自分も鬼のような姿に見えたという元三太師良源の墓↑
本人が生前に指示した通りの質素さで現代まで受け継がれているのは幸い。

↑少し下がったところには彼を慕うあまり死後も傍に葬られることを望んだ弟子の墓がある↑
※こちらに少し書きました


通常ツアーの比叡山観光ではあまり訪れない横川(よかわ)地区↑
↑横川の中でもいちばん北東方向(鬼門=上の図でいちばん上)を選んで自らの墓を置いた良源は、都の鬼門を護る比叡山を護る横川を護る・つもりだったのだ。

今回の旅の初日で彼の生誕地にできたお寺も訪れた※その日のブログにリンクします
比叡山が現代まで続く多くの日本仏教の祖が学ぶ場所になったのは、良源が復興させたおかげである。

↑駐車場から横川中堂への道にはここで学んだ僧たちの物語がパネルになっている。
道元、法然、親鸞、日蓮…ここは日本の大学のような場所だったのだ。

↑「元三太師堂」は晩年の良源が住んだ場所とされている。
最澄の時代に横川はなかったが、最澄の愛弟子で三十歳若い慈覚大師円仁が東塔から五キロ離れたこの地に移り住んだ。
良源はその約百年後に住んだ。

入口にはここが「四季講堂」と呼ばれるようになった由来が書かれている↑↓

↑村上天皇が後継を授かる祈祷をするよう良源に依頼し、成功。
喜んだ天皇の勅命で、春夏秋冬季節ごとに法華経を講義をするようになったことによる。

↑入口の「大津絵」の鬼がかわいい(^^)↓

このお堂の正面には良源の姿を映した絵が軸になって飾られている。
★伝説
ロウソクでできた良源の影は↓本人が移動しても消えなかった。

↓弟子がそれを縁取って残したものを軸にして「御影」としたのだそうな。
もちろん撮影は禁止。目を凝らしてみたが真っ黒でよくわからなかったけれど(^^)

ご住職が出てて来てくださりおみくじの由来と「八方壇」で行われる問答の話をしてくださった。
これも撮影禁止だが、本堂の中央に黒塗りのお立ち台みたいなところがあって、ここで仏教の問答をする。
※同様の問答が東塔でも行われるとあとからきいた

お話終わって、お下がりの饅頭をいただきました(^^)


良源の墓に行く途中↑「行院」の前を通る。
ここは今でも僧侶になるための修行が行われる場所で、瀬戸内寂聴さんもここで学んだのだそうだ。

↑良源廟への階段↑右側に冒頭に言及した弟子の墓がある
***
遠回りして「恵心堂」へ

途中に資材置き場にしかみえない広場があったが、よくみると海軍慰霊碑がある。
↑右奥にちらっとみえる白い建物はもとは宝物館だったというが、今は閉館して久しいそうな。あぁもったいない。

↑良源の弟子中の出世頭といってよい源信恵心が代表著書「往生要集」を執筆していた場所↑
現在のお堂はふもとの坂本から移築されたのだそうだ。

↑傍らの解説版によると、円仁が無事に留学から戻った際、祈願していた新羅明神を祀ったもの↑

円仁は最澄の弟子中の出世頭。
師が天台山の近くしか訪問せずに帰国したのを残念に思っていたのを知って、約四十年後に大陸へ。
唐から巡礼の許可がなかなか得られず、二度諦めて帰国しかけたが暴風雨で出来ず、結果的に五台山や長安まで至る足掛け九年の大旅行をした。
克明な旅行記「入唐求法巡礼記」を残している。

↑さいごに「横川中堂」を少し見学

↑昭和十五年に焼失した後コンクリートでそっくりに再建されている↑

午後、西塔エリアへ移動する
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《手造の旅》近江長浜と比叡山の旅~竹生島

2022-04-07 13:01:27 | 国内

びわ湖にむけておもいきり↑素焼きの「かわらけ」を投げる!
手前で地面に落ちて残念、と思ったら転がって鳥居を超えた(^^)

↑「かわらけ」を投げたのは↑写真右下の社殿から。
↑ここはかつて船から上陸してくぐる鳥居だった
↑この道こそが、かつての参拝ルートだった↑
地元ガイドのMさんに解説されて納得した。

「道の駅・水鳥ステーション」でつくっていただいたお弁当


赤こんにゃく、エビ豆、小鮎の南蛮漬け、黒豆のコロッケ、コウシン大根、小松菜…
小さいけれど近江がたくさん詰まっている。
竹生島へ渡るフェリーを待つ長浜港でひろげた

さよなら伊吹山↑

さよなら長浜城博物館

竹生島が近づいてくる。周囲二キロの切り立った崖の島。修験者の時代から神の島とされてきた。

冒頭写真の鳥居があるのは都久夫須(つくぶすま)神社。
上には行基によって開かれたとされる宝厳寺(ほうごんじ)がある。

↑フェリーを降りて宝厳寺への急な階段をのぼりはじめる。

「大弁財天」と呼ばれるのはここだけだと、ガイドのMさん↑

階段一段一段に奉納者の名前が刻まれている↑

↑登りきったところにあるのが弁財天を祀った本堂↑

ご本尊を拝むことはできないが、入って左右の木像もかなり歴史を感じさせる↓

この建物自体はしかし、昭和十七年に滋賀出身の瀧富太郎の寄進によって再建されたもの。

その由来を記した↑昭和十七年の顕彰碑↑

↑さらに少し上がった小さな広場に↑三重の塔。これも焼失の後近年再建された。

桜が盛りの階段を降り

国宝の「唐門」が↑これ

秀吉の大阪城から移築されたとガイドブックにあるが↑秀吉の死後三年間だけ京都の豊国廟にあった↑
この由来が判明したのは↓

オーストリアのエッゲンベルク城に保管されていた大阪城の絵に描かれていたのがみつかってから↑
あれ?移築されたのは建物の入り口部分だけだったのだ。

近年長い修理が終わって、元あった極彩色がよみがえった↑
移築された門がとりつけられている建物は観音堂で、
冒頭の「かわらけ投げ」ができる神社まで渡り廊下でつながっている↓

↑この廊下はなんと、秀吉の朝鮮出兵で建造された船の木材を利用して船をひっくり返した天井のカタチに建造されている。

↑途中に書かれた文字もその当時のものだろう

↑神社の建物も豊国廟からの移築をもとあった建物と合体させてあった↑

↑実に念入りな彫刻がほどこされている↑
弁財天はもとはこの社殿に祀られていたが、廃仏毀釈の折に現在の新しいお堂の場所に移され、代わりに神社の社殿とされたのだそうだ。社殿を背にして振り返ると↓

「海」を背景に、冒頭の「かわらけ投げ」ができる拝殿が見えた↑
拝殿まで行って本殿を振り返る↓

ほのかに赤い桜を脇にした姿↑

↑よく見ると龍がデザインされている↑

「ここは蛇がたくさんおるそうですよ。特に水辺の方には」

それで↑こんな伝説がうまれたのだろうか↑

向かって左には前出の渡り廊下が見える。

↑渡り廊下の下を港に向かって降りてゆく

今津への最終フェリーは14:50と早い。
「竹生島は夜はだれもいなくなるんです。神主さんも住職さんも専用のボートもってはるんです」

花盛りの「神住む島」を離れ

三十分で西岸の今津に到着

南下していく途中「白髭神社」の鳥居
一時間ほどで堅田↓

浮御堂もお見せすることができた。

17時には坂本の湖畔のホテルにチェックイン。
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