旅倶楽部「こま通信」日記

これまで3500日以上世界を旅してきた小松が、より実り多い旅の実現と豊かな日常の為に主催する旅行クラブです。

菅浦の石段をスリッパで上る、葛篭埼(つづらおさき)

2024-04-12 13:49:31 | 国内
そもそも裸足で上るきまりになっている参道なのだが、

外からの方には親切にスリッパが用意されているのだ。

奥琵琶湖の隠れ里・菅浦、ついにやってきた。

4月1日午後、まず訪れたのは山門(やまかど)公民館

ここは平安時代からの馬頭観音像をお護りしている。
すぐに二階に通されると

三尊鎮座しておられた。

いちばん左、憤怒の形相をしておられるのが馬頭観音様。
平安時代後期11世紀ごろに製作されたとされる。
もともとどんな場所にあったのかは分かっていない。
山門集落のはずれのお堂に護られていた。
平成26年春に解体修理された↓

↑江戸時代に修復されて現在のお姿になったが、もともとは八臂=斜め上にも二本の手がのびていたとわかった。
馬頭観音は、人間の煩悩を馬のようにむしゃむしゃ食べてくれるのだそうな。

事前に図録で予習はしていたが、
実際に目の前にすると江戸時代の彩色で隠されてしまった平安時代オリジナルの姿が見えてくる。
**
桜の開花に少し早い時期だったが

「清水の桜(しょうずのさくら)」だけは待っていてくれた。
※リンクします


***
海津大崎もまだ開花していない。

開花の時期だったらこんなにスムーズに通れなかっただろう。


↑葛篭尾崎(つづらおざき)の入り口にさしかかると道が二つに分かれる↓

↑「暴走くり返すな」の看板…
峠道をバイクで暴走するヤツらが出るのだそうだ。
眺めは最高だしバイクで走りたくなる道ではあります。

我々、まずは下の菅浦集落へ。
「重要文化的景観」に指定されている※長浜米原観光情報サイトにリンクします

↑村の出入りチェックポイントだった「四足門」は室町時代にはその存在が文書で確認されている。
当時四か所あったうちの二か所に同じ形状の門がある。もちろん当時のものではないのだろうけれど。

湖沿いに細長くのびた村のいちばん奥まで車で行ってもらい、下車して村の中の道を歩きはじめる。

↑もうひとつ残っている「四足門」
菅浦への道は1970年代まで湖岸道路がなかった。
湖側から船で着くか、背後の急峻な山を歩いて下りてくるしか入る方法はなかった。

こんな場所だから、古来戦に負けて逃げ込む人はあった。

冒頭写真の裸足で上がる須賀神社参道の先には、
西暦764年の恵美押勝(藤原仲麻呂)の乱で廃位された淳二天皇の御陵がある(とされている)。
※淡路に淳二天皇の正式な御陵はある
淳仁天皇は天武天皇の孫。
都での戦いに敗れ、脱出して湖西を北上。
が、琵琶湖での戦いを密かに逃れてこの菅浦にかくまわれたという伝承なのだ。

淳仁天皇が蹴鞠をしていたと伝わる場所↑

↓もうひとつの伝承…

西暦1573年(天正元年)の小谷城落城のあと、
浅井長政の次男が密かに菅浦に逃れ僧侶として生き延びた。


菅浦はなるほど奥琵琶湖の隠れ里である。

↓須賀神社の参道の話にもどる↓

本来はこの鳥居から先は素足にならなくてはならないのだが

ずーいぶん長いし、冬は雪も積もるし…ということなのか

途中に資料館もあるからということなのか

↑ここから先の石段の部分だけでよしということになっている

↑それでもそこそこ距離はあるしずいぶん歩きにくかった。

↑のぼりきってすぐ前に拝殿

↑菊の紋章入り

↑すぐ後ろに本殿があり↑そのすぐ後ろに石積みが見える↑
古墳のよう↑
淳仁天皇の生きた8世紀は、いわゆる「古墳時代」は終わっている。
しかし、天皇の廟なら古墳の形状をとっていてもおかしくない。
この上がどうなっているのか…

「ちょっとスリッパであがるのはたいへんですな」
登りかけたガイドさんが引き返してきた。

あとから調べてみると、
「舟形の御陵」は本殿を囲むようになっているようだった。
つまり、我々はすでに古墳の中に立っていたのか。

****
参道を降りて菅浦集落を歩くと

↑「第●●作業所」がそこここにあるのに気付く↓

半世紀前、ヤンマーが地元振興のために設立した「ヤンマー家庭工場」だ。
※2018年に「長浜くらしノート」さんが取材されたページにリンクします
菅浦の文化を守る・継承するといっても、
役所が補助金を出すだけでは成り立たない。
そこに生活できる仕事がなければ人はいなくなる。
ヤンマーの創業者山岡孫吉はそんな風にも考えていたのかしらん。

菅浦は四月最初の土日に神輿が三基出る祭りがある。
「もう担ぎ手がいないんですよ。今年は一基出せるかなぁ…」

↑種芋をつくっている方があった
*****
菅浦集落を出て分岐点へ戻り、
葛篭埼半島の尾根を走る「奥琵琶湖パークウェイ」に入る。

展望台のあるあたりにも大きな古墳があるようだ。

琵琶湖を行き来する船が見上げる山の上にたくさんの古墳が並んでいた様は壮観だっただろう。

対岸の湖畔に山本山が黒くのびている↑きのう訪れた「西野水道」はあの下を貫通させたのか※ブログにリンクします
↑左奥に削り取られた白い山肌を見せているのが伊吹山↑あの逆側が関ケ原になる。
奥琵琶湖を一目で感じさせてくれる鳥瞰図だった。
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冷水寺、赤後寺、丸子船の館

2024-04-09 06:13:14 | 国内
鷲?鷹? やっと顔が撮れた。

「紅鮎」の部屋から見える木に巣がかかっている。

各部屋にある望遠鏡にiPhoneを押し当ててやっと撮った。

朝食のアサリ汁は琵琶湖らしい?

↑今日午後に訪れる葛籠尾崎(つづらおざき)上の道路が見える
**
4月1日08:45に出発。

きのうの黄砂の影響が消え、すっきりした青空。

最初に冷水寺を訪れた↑手前右手のお堂がそれ↑左奥の林の中に春日神社がある↑
冷水時のお堂に安置されている江戸時代の座像↓は明治の神仏分離令まで春日神社にあった。
明治の神仏分離令により、仏像は神社に置けないということで境内の外に小さなお堂がつくられたのである。

↑江戸時代の鞘仏の中には今も…
※2020年9月のブログに詳しく書いたのをお読みください

***

↑教会ではなく、ヤンマーの創業者山岡孫吉が生まれ故郷の東阿閉村に1952年に寄付した公民館↑

滋賀県伊香郡東阿閉⇒「ひがしあつじ」と読む。
ヤンマーの創業山岡孫吉は40代半ばにライプツィヒの見本市でディーゼルエンジンに出会い、その小型化に成功したことが大きな転機になった。日本の小さな田んぼでも使える耕運機のはじまりになる。
ヤンマーは現在も長浜に多くの工場を置き、創業者の生まれ故郷に貢献し続けている。
村の一角に最近建てられた創業者夫妻の胸像があった。
現在の四代目社長は創業者の孫。

築70年を超えた公民館は耐震基準に問題がでてきて、
補修にかかる費用をどこがどう負担するか・あるいは解体するか、話し合われている最中だそうだ。
****
「ここまで水に浸かったんですよ」↓

ガイドのOさんが車から降りて明治28年の洪水の記憶を示してくれた↑
江戸時代の西野水道が完成した後にもこんな水害が起きていたのか。
昭和になってあらたな水抜き穴が二度も建設される必要があったのだ。
※西野水道についてリンクします
*****
赤後寺に到着。

日吉神社、でもある。

鐘をつかせていただいいた。
こちらには平安時代の千手観音像が安置されている。
厨子が開くと予想よりずっと大きなお像が姿をあらわした。厨子は少し小さすぎるように見える。後の時代(明治?)に、様々な経緯でここに収められてはいるが、厨子はもともとこのお像のためのものではないのではないか。
お像の手はすべて欠損しているが平安時代の姿をよくとどめているように見える。

重要なのは集落の人々が代々大切に護り伝えてきたということ。
お話していただいて、お気持ちがよくつたわってきた。

↑お像が沈められたという赤川は今も村の中を流れている↑

江戸時代以前には立派な伽藍の寺院にあったようだが詳しくはわかっていない。
「天正十一年の柴田勝家と豊臣秀吉の戦火の際伽藍に火がつき、村人がこのお像を背負って逃れた。村を流れる赤川に石をくくりつけて沈め、柳の枝で覆って隠した。」という伝承がある。

↑「御枕石」はその時にお像の「枕」にしたものだそうな↑


境内を出てすぐに見える立派な白壁の家は↑布施巻太郎美術館↑
きのう高月観音の里資料館で見た富岡鉄斎の作品の多くはこちらのものだ。
※きのうブログにリンクします

******
余呉川沿いはタンポポの花盛り

※リンクします


トンネルを抜けて
*******
奥琵琶湖で最大の港だった塩津に入る
塩津には最盛期115隻もの丸子船があったと記録されている。

道の駅「あぢかまの里」でお昼ごはん用に名物の米粉のパンを購入

ここには貴重な「丸子船」も展示されている。

これから訪れる「丸子船の館」にもあるが、道の駅の船の方が古いのかもしれない。

↑こちらにはエンジンをとりつけた形跡がないから。実際どうなのでしょう?

今回も、小松が琵琶湖の歴史を知るには必見だと思っている「丸子船の館」へ

※2020年のブログで詳しく書きました
「丸子船の館」は塩津からもうひとつトンネルを抜けた大浦にある。

↑江戸中期に各港の丸子船の数↑塩津は大津より多い115隻が登録されている。
日本海から京都大阪への物流の要だったことがわかる。
塩津には舟の出入りに適した大代川が流れ込んでいる。
「港は大小の丸子船で埋め尽くされ、川沿いに蔵が立ち並んでいた。荷を扱う問屋は120軒、二十人以上泊まれる宿は二十数戸、飲食店は三十数戸。」と記録されているそうな。

地図ですぐとなりに見える大浦が17隻と小規模なのに成り立っていたのはなぜか?
奥琵琶湖は湖岸がすぐ山になっており、今のような湖岸道路はなかった。
今も訪れてみるとトンネルが集落をむすんでいる。
江戸時代当時は湖が荒れると隣の港に移動するのも難しかった。
だから、山ひとつ隔てただけの小さな港でも成り立っていたのだろう。
・・・小松はこれまで三回訪れて・かってにそう理解していたのだが、
今回新たな理解をした。

大浦は塩津より安く滞在できたと、「丸子船の館」の方が解説した。
塩津は公営でなんでも揃う場所だったが、その分物価も停泊代も高かった。
少々不便でも近くの大浦で荷揚げ・荷下ろしをして運送費を安くしたい商人のニーズは確実にあったのである。

↑江戸時代の大浦港のジオラマ

お昼ご飯は今は静かな大浦の港にて。

「あぢかまの里」で買ったパン。
今日は最高のピクニック日和。

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オオサンショウウオを間近に見る、高月観音の里資料館で鉄斎を知る

2024-04-07 14:31:27 | 国内
オオサンショウウオは人間みたいな手をしている↑
保護活動をしておられるOさんにご案内いただいてその生態を知ることができた。
※youtubeにUPしましたのでご覧ください


己高山(こだかみやま)は仏教がやってくる以前から信仰の山だった。
長浜周辺には「白山神社」がざっと数えただけで十社以上みつかる。

山頂からは日本三大霊場の白山も見える↓絵図の一番上

己高山は仏教伝来以前からの聖山。
平安時代に比叡山から天台宗が広まってくると何十もの伽藍が山いっぱいに広がった。
だが、これらは信長戦国時代時代の戦火で焼かれた。
さらに明治の廃仏毀釈で衰亡した。
ネットや本の解説の多くはここまでしか書かれていない。

しかし、現地の方とお話するなかで昭和に至るまで己高山に多くの僧房が健在だったことを知った。
実際に人が住まなくなったきっかけは、昭和8年の冬に起きた原因不明の火事だそうだ。
どのぐらいの被害があったのか正確にはわからない。
だが、昭和17~18年にかけて鶏足寺の仏像が飯福寺に遷仏された。
人の住まなくなった山の中に立派な仏像が放置されるのはよくないということだったのだろう。

何十ものお像は周辺の村や家々にばらばらに護られていた。
昭和38年に公営の収蔵庫として己高閣がつくられた。
※長浜、米原を楽しむのサイトにリンクします
今回、こちらを見学することができた。
※写真撮影禁止

オオサンショウウオの保護活動をしておられるOさんは己高閣・世代閣を案内をしておれる。
ご自宅はすぐ近く。
サンショウウオが住む清流が流れている。
今回、己高閣・世代閣のご案内をしていただいたのだが、「ちょうど今オオサンショウウオを保護しているのです」ということで、見せていただくことができたのだった。
お住まいのすぐ隣の茅葺屋根の家もOさん宅。
家の前のケージにいたのは、大きなフクロウ!羽を怪我して動けなくなっていたのを保護している。

メスで、夜になると周辺のオスたちが求愛にくるそうな。

玄関を開けたところにいたのも↑元気なホンモノだった。

清流がながれる広い裏庭?へ

この一角に冒頭のオオサンショウウオが保護されていた。

流域に住むサンショウウオには一体一体に識別チップがとりつけられており、現在120個体が確認されている。
大雨で下流に流された個体があると連絡がきて保護しにゆく。
その時に身長・体重・特徴を記録する。
そしてまた自然に戻す。
同じ個体がなんども保護されてきて、その度に大きくなっているのがわかる。
こういう調査は長い年月にわたる辛抱強い記録が必要で、
遠くに住む研究者より地元に住む好事家のほうが活躍する分野だ。
「続けていくうちに一年で約1センチ成長するということがわかりました」
ということは…冒頭の80センチの個体は70歳以上にはなる。
オオサンショウウオは人間並みの寿命をもっている。

「このあたりの個体は今はめずらしくなった日本固有種なんですよ」
戦前にはオオサンショウウオも食用にされており、
中国産が輸入されていたのが逃げ出して交雑してしまったそうだ。

サンショウウオは山椒の味がするのか?
身体のガラが山椒に似ているからなのか?
「山椒の匂いが身体から出るといわれてますが、じっさいそうでもないですよ」とOさん

Oさんは2006年に新種認定された小型サンショウウオのひとつ「まほろばサンショウウオ」も保護されていた。

****


石道(いしみち)集落にある石道寺(しゃくどうじ)を訪れる。

井上靖の「星と祭」の中で印象的にとりあげられている観音像がある
※「長浜、米原を楽しむ」のページにリンクします
*****
渡岸寺の「観音の里資料館」では、館長のHさんにご案内いただくことができた。

一階の観音像を中心とした展示に加え
二階では今年没後百年になる富岡鉄斎(1837~1924)の特別展示をやっていた。

鉄斎についてはユニークな「妙義山」の絵をどこかで見かけただけで、その抽象画のような画面の印象が強かったが※WIKIにリンクします
小松ははじめて、鉄斎がどんな人物だったのかを認識させてもらった。

鉄斎最晩年に現長浜市高月町に住んでいた医師布施巻太郎(1881~1970)と密な交流があった。
四十歳以上年下の布施ははじめ鉄斎に相手にされていなかったが、青木木米(あおきもくべい)作の白い香炉を贈ったことで「これをわかる者ならば」と、信頼を得たのだそうだ。高月観音の里資料館の展覧会にはその香炉が展示されている。※こちら「高月観音の里資料館」のページに載せられています
没後百年なので他の多くの美術館も布施美術館の収蔵品に貸出依頼があったが、高月観音の里資料館は小規模ながら多くの逸品を展示されていると感じた。
※「布施美術館」についての滋賀県のページにリンクします
今回、予期せず館長Hさんと古参学芸員のSさんに熱のこもった解説をしていただけた。
鉄斎をもう少し知りたくなった。
*******
17時、尾上(おのうえ)温泉「紅鮎」に到着。





↑右にフナの子まぶし、酢味噌でいただきましょう
↑左下は「いぶきサーモン」、これ「伊吹山」のものかと思ったら、長野でした!※伊那谷にリンクします↑左上はカンパチ

↑近江牛を豆乳鍋で↑柚子胡椒がよくあいます

部屋にかけられていた絵は「紅鮎」の名前の由来を描いている↓

戦国時代、戦で川が赤く染まり鮎も赤くなったというのである

この絵は大津出身の画家・鈴木靖将の作品↑もともと衝立用に描かれたものを装丁しなおしたのだそうだ。

彼の最初の妻は日本画家の三橋節子。
4月2日に訪れる余呉湖で彼女にゆかりの場所でもある。


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四度目の西野水道

2024-04-06 14:07:11 | 国内
琵琶湖沿いの山を220m掘り抜いた西野水道。
江戸時代の水抜き穴だから雨の後は水路のようになる。

そこを歩く。
※今回の動画をごらんください


↑余呉川の水が溜まって水害に苦しんむ西野集落を救おうと発案された水路だが↑1836年には西野だけ大豊作だった↑
「水路はやめよう」という意見も出たそうだ。目の前のことしか見えなくなるのを責められない。
堀りはじめる前の意思統一のほうが苦労が多かったのではないだろうか。

水路プロジェクトの発案者=充満寺住職恵荘(えしょう)にいかに人徳があろうと、
成功するかわからない作業に財産を投じるには覚悟が要る。
彦根藩の公共工事ではない。
百戸ほどの西野の人々が食を減らし、山や土地を売って費用を捻出するのだ。
プロジェクトが失敗してもかかった費用は支払わなくてはならない。

江戸時代に工事費用を捻出するために隣村に売った土地を、21世紀になった今でも買いもどし続けているときいた。
**
《手造の旅》で訪れる四度目の長浜の旅。
朝10時に米原駅東口に集合し、出発。

琵琶湖を左に北上すると↑長浜城博物館が見えてくる

さらに北上し↑竹生島が大きくなってくると西野集落は近い。

現代の余呉川水路を渡る時「西野水道」の看板が見える。

先に、集落で護られてきた薬師堂を訪れた。

※千手千足観音像を「東京長浜観音堂」で拝観した時の写真を載せました
隣り合わせている西野薬師堂の十一面観音立像、薬師如来立像も拝観

※長浜・米原の観光サイトにリンクします

そして、冒頭の「西野水道」へ向かった。

↑見えているのは三本目の水抜き穴↑昭和55年に建設された。
今も四本目の水路計画が動いている。
※滋賀県のページをお読みください
西野水道が過去の遺跡でないことは、今回余呉湖を訪れた時に知ることになる※余呉湖のブログにあらためて書きます

長靴に履きかえ、ヘルメットを着用。

先週雨ばかりだったので入り口付近から水が多い↑

↑洞内の高さは(場所によって違うが)およそ二メートル。湖側は低くなっているので腰をかがめて歩く区間もある。
非常に硬い岩だが工事途中になんども崩れたので部分部分が石の支柱で支えてある。

伊勢の石工たちが手掛けた場所は四角い穴でより広くて大きい。

江戸時代のまま↑電灯もつけられていないし、足元も歩きにくい。
観光資源として人を呼ぶのに整備する必要があるという声もあったそうだが、そういう改変をされないでいることが西野水道の大きな価値だ。

測量技術の発達していない時代、傾斜をつけるために掘りなおした地点や地質により方向を変えた地点がある↑
歩いてみるとそれがよくわかる。
掘りなおした地点から足元の水の流れがスムーズになっている。

並走する↓昭和25年に完成した二本目の水路を建設する際に↓この水道から試掘した穴↓はじめて歩いた時は通り抜けるのに夢中で気付かなかった。

↑小さな石で埋め戻してあるのが確認できる↑
昭和の水道は江戸時代の水道より少し長い。
建設する際に江戸時代の穴を拡張する方法もあっただろう。
それをせずに遺したのは、江戸時代の偉業への敬意だったのかしらん。

最初に呼び寄せた能登の石工は1840年7月29日に↑琵琶湖側(西側)から掘りはじめたが↑翌年9月に39mの地点で断念↑それがここ↑
逆側から掘りなおしたが翌年4月に20m掘ったところでこちらも断念。掘りかけの穴を残して帰ってしまった。
私財を投じた村民たちの落胆はいかばかりだっただろう。
プロジェクトリーダーの恵荘にとっていちばん苦しい時期だったにちがいない。
ストップした工事をどうするか…彦根藩の奉行の見分もおこなわれた。
工事続行のため7月に新たな石工を伊勢から招へいし、工事再開。

能登の石工が断念した箇所を、伊勢の石工はどうして掘り抜くことができたのか?
「伊勢の石工は火を使ったそうです」
なるほど、新しい技術が突破口になったのだ。

琵琶湖側に抜ける。

昭和55年の水路が大きな口をあけ↑釣り人が並んでいた↑
西野水道は来る度に発見があり、さらに知りたいことが増える。
恵荘上人の記録が充満寺に保管されているとのこと、いつか見せてもらえる機会をつくりたい。
***

↑米原近くでしか売っていない井筒屋の「湖北のお話」弁当を開く↑
※このお弁当にした理由をこちらに書きました

↑目の前のこの実りも先人の苦労の賜物なのだ

午後いちばんには古橋地区を訪れる

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待っていてくれた「清水の桜」

2024-04-03 15:22:27 | 国内
先週雨続きで、桜のつぼみはまだ固い4月1日。

「清水の桜(しょうずのさくら)」一本が、我々を待っていてくれたように思えた。
2022の4月、ドライバーさんが「加賀の前田公が振り返って見たちゅう桜があるんや」と教えてくれた※その時のブログにリンクします

近くの集落の埋葬地として江戸時代からの墓石が密集している。
水上勉の小説「櫻守」で、主人公が葬られたいと願った場所。
軍人の墓を見て「戦死してもこの樹の下にもどってこられる」と思って召集されていった話。
読んでみなくては。


↑大きな車はとても入れない細い道が、かつて加賀前田の殿様の行列が通った道。
↓このあと通った奥琵琶湖の桜の名所「海津大崎」が咲くのは来週ぐらいかしらん。


桜だけが春の花ではない。

余語川の流れに沿って今は盛りとタンポポの黄色。

橋の上から見下ろすと、流れに一メートルぐらいありそうな鯉?
「余呉湖から流れてきた草魚(そうぎょ)です」とドライバーさん

「おお日本タンポポやぁ、めずらしい!」と声をあげたガイドさん。

↑ガクの部分が開いていないのが日本タンポポなんだそうです
※「ウェザーニュース」のページにリンクします

十日前に下見にきていたことで、春の十日の開花を感じることができた。
※植物の名前に疎いので追々…
ツツジではなくアザレアだそうです。
イチゲ




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