旅倶楽部「こま通信」日記

これまで3500日以上世界を旅してきた小松が、より実り多い旅の実現と豊かな日常の為に主催する旅行クラブです。

朝のモン・サン・ミッシェル

2024-10-14 05:48:45 | フランス
2024年10月1日朝8時過ぎのモン・サン・ミッシェル。
三時間もすると人であふれかえるが、その前に歩きたい。

対岸からのナベット(シャトルバス)に、予定よりずっと早く乗った。

かつては団体バスで島の入り口まで行けたが、2012年の4月28日からナベットに乗り換える必要がある。

ナベットを降りると、見たかったようなモン・サン・ミッシェルがそびえている。
ガイドさんとの待ち合わせ時間までまだ40分以上あるからゆっくり写真タイム。
そして中世らしい城門をくぐる。

パリからのバスが到着する前に歩くことが重要。

メインストリートではない細い階段を上がると

朝の空がひらける。
村の墓地にあるプーラールさんのお墓。有名なオムレツメニューを開発した「プーラールおばさん」一族の墓はたくさんある。小松が記憶していたお墓は本人のとはちがったけれど(笑)

後ほど↑ガイドさんと修道院に入ろう。

午前9時すぎガイドさんと待ち合わせ。
めずらしく日本人ガイドさん。
多くの場合英語ガイドさんの話を添乗員さんが要約するのだが、今日は直接お話していただけるし、時間も節約できるから濃い内容を楽しんでいただけそう。
「コロナ禍でいろんなモノがかわりましたが、これもそのひとつです」として、足で開閉できるゴミ箱を紹介してもらった。
なんでもないこういう事こそ、実際に訪れないと見えてこない。

大通りはまだ人通りが少ない。

一人が肩を壁に摺らせながらあがる階段。

ほんとに狭いんです。

↓この建物の間を上がってきた↓

↓「屋根を覆っているのは栗の木の板かスレート(粘板岩の板)です」↓

なるほど、栗の木もあったんだ。

四十五分前と同じ修道院が、朝陽に照らされてまったく別の色になってきた。

さきほどの村の墓地↑サン・ピエール教会のロマネスク的な塔。

上がりきると↑かつて小学校だった建物↑今は写真家のアトリエ

↑めずらしい雪のモン・サン・ミッシェルも写真

↑修道院入場の行列は予約グループ優先

↑そびえる城門は中世も今も手荷物チェックの場所。
かつては携行武器をここで預けさせられた。

↑修道院内の階段をのぼりはじめると↑途中に巨大な蛇口がある↓

↑見上げる上は実は…

雨水の貯蔵タンクになっている。
この島で暮らすために必要な水は天から恵まれる。
雨の多いノルマンディー地方だからそれが可能。

頂上の修道院テラスに出ると人怖じしないカモメが「何かくれるの?」

巨大な尖塔の影

別途、続く

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ルーアンで散策とランチ

2024-10-06 17:08:13 | フランス
2024年9月30日、午後はルーアンにちょっと寄る。

バスを降りて歩きはじめると「きれいな街ねぇ」という声がきこえてきた。

ノルマンディー地方らしい木組みの家々と旧市街の街並み。

モネが連作を描いた大聖堂↑
※2008年にモネが描いた場所にもはいりました
夏場には壮大なプロジェクションマッピングが行われているので、次回はぜひ一泊してください(^-^)
※2015年のプログに写真を載せています、ぜひごらんください
↑上の写真の大聖堂は何百年もかかって今の姿になったのでいびつなカタチをしているが、
↓下の写真のサン・マクルー教会は1437年から八十年ほどで完成したので整った後期ゴシック様式で統一感がある。

この場所にあったロマネスク様式の教会を、15世紀に近くに住んだ商人たちが後援して当時最新の建築スタイルに建てなおした。
フランス革命期に内装はほぼ失われ、第二次世界大戦では二発の爆弾が命中したが、
15世紀当時の姿をとりもどしているのは幸い。
教会正面から左にすすむと「サン・マクルーの回廊」がある↓左手が入り口

↓この場所はローマ時代から中世まで墓地で、黒死病(ペスト)の犠牲者が大量に葬られていた。
↓1348年にはルーアンは人口の四分の三を失くしたという。

1533年に周りを囲む木造の建物が完成し中庭のある納骨堂となった。

なので↑骸骨や墓堀道具の装飾がされている

↑※こちら2006年訪問時の写真
建物入り口壁の中から発見された黒猫のミイラが今もそのまま置かれている↓

魔除けだったとされている。

18世紀には一度廃墟になり、孤児院にもなったそうだが、今は美術学校として使用されている。

↑ふたたびサン・マクルー教会と大聖堂横の道を通り「古い市場広場」へ。

ジャンヌダルクが火あぶりで処刑された広場に↑モダンな教会が建てられている↑1979年に完成した

↑この十字架がその場所↓

↓教会内部が開いている時、2008年に入った↓

13枚のステンドグラスは16世紀聖ヴァンサン教会を飾っていたもの↓

聖ヴァンサン教会は1944年の爆撃で破壊されてしまったがステンドグラスは外してあったので難をのがれた。
ステンドグラスは戻る場所を失ったのである。

新しい教会はこれらのステンドグラスの場所としての意味が大きい。
教会のカタチはノルマン人たちの「竜」をイメージしていると共に、ジャンヌダルクの兜もあらわしているそうな↓

↑これは確かに目ですね↑※2008年の写真より↓

旧市街のど真ん中にあっとおどろく現代建築の教会。
1980年ごろにはこれでOK、だったのかもしれません…

昼食はジャンヌダルクが火刑に遭ったときから営業していたとされる「ラ・クーロンヌ」

数多くの有名人のサインが掲げられているが

入り口の故エリザベス二世イギリス女王は別格。

パンプキンが主体の暖かい野菜スープ、カモはノルマンディーらしいカラメルソース、ミルフィーユ。
このレストランは団体客を受け入れても質を落とさない稀有な有名レストランにちがいない。
※2012年に訪れた時のブログにもメニュー写真を載せております
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モネが後半生を過ごした家

2024-10-04 17:16:53 | フランス
ジヴェルニー(ジベルニー)に43年住んだモネ。

絵はたくさんかけられているが、今は本物はひとつもない。

↑亡くなった先妻カミーユと二人の息子たちの幼少期の絵があった↑
左の長男・ジャンは、後妻アリスの連れ子ブランシュと結婚した。
アリスは六人も子供がいたから、ジヴェルニーの家はとても賑やかだっただろう。
モネが40代でようやく売れはじめた時期である。

食にも興味津々だったモネは最新のキッチンをつくり、

↑大家族は黄色いダイニングで食事をしていた。

ジヴェルニーの家は浮世絵と

友人たちの絵でいっぱいだった。

だが、長男ジャンが父より早く46才で亡くなり、
次男ミッシェルも1963年に自動車事故で死ぬ。
二人に子供はいなかったのでジヴェルニーの家を継ぐ人はいなくなった。

荒れ果てていた邸宅を、
モネ財団が本気で修復しはじめたのは1980年代に入ってから。
ヨーロッパよりもアメリカの人々からの多額の寄付で、かつてのジヴェルニーの様子が復元された。

日本的な「箪笥」もある。

※2012年に訪れた時のブログにリンクします

モネがこの家を借りたのは43才。
十年後に買い取って、道むこうに水連の庭をつくらせた。

世界中の美術館で見ることができる「水連」絵は、この庭だったのかとわかる。
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