片岡義男の「日本語で生きるとは」を読み返してみた。初めて読んだ時には、言語の特性とその影響に対する洞察におおいに感心したものだが、時間を置いて読んでみると、同じ内容の繰り返しの多さに辟易するところもあり、その主張にも素直に頷くことが出来なかった。
思考は言語を用いて行う。故に、言語の違いが思考方法や思考パターンの差異として反映される。それは、その通りだろう。しかし、思考や論理のパターンの差異は言語の違いもさることながら、個人差による影響がはるかに大きいのではないだろうか。同じ日本語を話す相手と理解し合えないことは多々あることだし、言語を異にする相手と友好関係を構築することもよくあることだ。むしろ、同じ言語を使うから思考パターンも同じと考えることのほうが、日常生活のなかでは不都合や不愉快を引き起こすことにつながるのではないだろうか。話が通じない相手に「変わり者」「馬鹿」などとレッテルを貼って、その相手を理解しようとする努力を放棄することは誰もが日常的に行っていることではないのか。
言葉が発想や行動に影響し、それが国民性を形成する一因になることは否定しないが、言語がすべてではないだろう。
思考は言語を用いて行う。故に、言語の違いが思考方法や思考パターンの差異として反映される。それは、その通りだろう。しかし、思考や論理のパターンの差異は言語の違いもさることながら、個人差による影響がはるかに大きいのではないだろうか。同じ日本語を話す相手と理解し合えないことは多々あることだし、言語を異にする相手と友好関係を構築することもよくあることだ。むしろ、同じ言語を使うから思考パターンも同じと考えることのほうが、日常生活のなかでは不都合や不愉快を引き起こすことにつながるのではないだろうか。話が通じない相手に「変わり者」「馬鹿」などとレッテルを貼って、その相手を理解しようとする努力を放棄することは誰もが日常的に行っていることではないのか。
言葉が発想や行動に影響し、それが国民性を形成する一因になることは否定しないが、言語がすべてではないだろう。