「カルティエ現代美術財団コレクション展」を観て来た。力作揃いだった。日本人の作品のなかでは松井えり菜が出色だったと思う。現役の大学生だそうだが、人間というものをよく理解している人なのだろう。また、同展のポスターにもなっているロン・ミュエクの「イン・ベッド」は巨大だがリアルな作品だ。もともとはオーストラリアのテレビ局で子供向け番組用のセットや着ぐるみを作っていた人なのだそうだが、肌の質感、表情が素晴らしい。生まれたばかりの赤ん坊から見た母親、という視点もユニークだ。
現代美術であれ古典であれ、「芸術」と呼ばれるものが求めるのは人間の真実であろう。もちろん、そんなものは無い。無いが故に、様々な理屈と技巧をこらして表現し、それを世に問うのである。誰も見たことはないけれど、誰もが漠然とイメージしているものを探し求める者が「芸術家」と呼ばれるのである。その作品を観る者が、それを評価するなら芸術家には存在意義が認められ、そうでないなら存在が認められない。他人の顔色を窺うという点では太鼓持ちと同じだが、「芸術」と言われると高尚に聞こえるから不思議だ。
こんなふうに考えると、職業というものはどれも皆、太鼓持ちだ。客の顔色を窺い、その満足を引き出すために右往左往する。そうしなければ生活の糧を得ることができないからだ。「職業に貴賎は無い」という。なるほどその通りだ。
現代美術であれ古典であれ、「芸術」と呼ばれるものが求めるのは人間の真実であろう。もちろん、そんなものは無い。無いが故に、様々な理屈と技巧をこらして表現し、それを世に問うのである。誰も見たことはないけれど、誰もが漠然とイメージしているものを探し求める者が「芸術家」と呼ばれるのである。その作品を観る者が、それを評価するなら芸術家には存在意義が認められ、そうでないなら存在が認められない。他人の顔色を窺うという点では太鼓持ちと同じだが、「芸術」と言われると高尚に聞こえるから不思議だ。
こんなふうに考えると、職業というものはどれも皆、太鼓持ちだ。客の顔色を窺い、その満足を引き出すために右往左往する。そうしなければ生活の糧を得ることができないからだ。「職業に貴賎は無い」という。なるほどその通りだ。