ミュゼ浜口陽三を訪れた。かつてこの近くで働いており、水天宮近辺は自分のランチエリアであったが、このようなギャラリーの存在に全く気付いていなかった。気付くはずもない。開設されたのは1998年11月。そのときには私の職場は別の場所に移っていたからだ。
今日は浜口氏の奥様である森桂子の作品展の会期中だったので、浜口氏の作品は数点だけだった。しかし、数の問題ではない。メゾチントの世界が持つ夢と現との中間のような世界が大好きだ。先日、横浜で長谷川潔の作品を観た時も感じたのだが、メゾチントの静謐さは日本画に似ていると思う。
平面に立体を表現しようとすれば、なにがしかの工夫と無理が必要となる。版の表面に細かい傷をつけることでインクののりに強弱をつけると、刷り上がった色には質感がでる。同じ色なのに量の多寡やプレスの強弱、紙への浸透度の違いで表現の世界が広がる。その手品のような展開も興味深い。同じリソースが扱い方の微妙な違いで表現を変えるのである。さらにそれらを組み合わせると表現の幅は一気に広がる。これは、版画の紙の上だけのことではないだろう。
今日は浜口氏の奥様である森桂子の作品展の会期中だったので、浜口氏の作品は数点だけだった。しかし、数の問題ではない。メゾチントの世界が持つ夢と現との中間のような世界が大好きだ。先日、横浜で長谷川潔の作品を観た時も感じたのだが、メゾチントの静謐さは日本画に似ていると思う。
平面に立体を表現しようとすれば、なにがしかの工夫と無理が必要となる。版の表面に細かい傷をつけることでインクののりに強弱をつけると、刷り上がった色には質感がでる。同じ色なのに量の多寡やプレスの強弱、紙への浸透度の違いで表現の世界が広がる。その手品のような展開も興味深い。同じリソースが扱い方の微妙な違いで表現を変えるのである。さらにそれらを組み合わせると表現の幅は一気に広がる。これは、版画の紙の上だけのことではないだろう。