フセイン政権崩壊後、最初のイラク映画だそうだ。正確にはイランとイラクの共作で、タイトルは現地の言語なのだが、文字化けしてしまい、このブログに載せることができなかったので、やむを得ず英語のタイトルを記した。2005年に岩波ホールで公開された時、見そびれてしまった作品だ。今、Tate Britainで中近東を特集した作品展を開催しており、その一環で中近東を舞台にした映像作品を公開している。この作品の他には今や古典とも言うべき「Lawrence of Arabia(邦題:アラビアのロレンス)」、2007年3月に東京都写真美術館で公開された「Paradise Now(邦題:パラダイス・ナウ)」、やはり2007年3月にアラブ映画祭の上映作品のひとつとして公開された「Yacoubian Building(邦題:ヤコービエン・ビルディング)」の4作品が公開される。このなかから、今日「Turtles can fly」を観て来た。
人間であることを止めてしまいたくなる。人には欲とか我というものがある。人に限らず、生き物にはその生命を次世代に繋ぐという使命がある。自分の我を押し通していけば、当然、他者と利害が衝突することになる。人類の歴史は闘争の歴史であり、自然破壊の歴史である。しかも、その闘争や破壊は歴史の進展とともに規模が拡大している。やがては、自分の我のために自分自身を抹殺することになるのだろう。破壊や殺傷のための知恵を、なぜ闘争回避のために使うことができないのかと思う。個人どうしの争い事から国家間の戦争に至るまで、勝っても負けても当事者にとって得るものは何も無いと言ってよい。それは総論としては認識されている。だからこそ、我々の社会には様々な紛争解決の仕組みが用意されている。しかし、そうした仕組みは殆ど機能していない。人類に英知というものはないのか、と問いたい。
作品は冒頭から衝撃的である。少女の投身自殺のシーンだ。物語は彼女の死から3日ほど遡って始まる。舞台はイラク北部のクルド人難民キャンプ。主人公はそこで暮らす子供たち、なかでもリーダー格の少年サテライトと彼が恋心を寄せる新入りの難民アグリン。彼女が自殺する少女である。彼女はおそらく12歳くらいという設定ではないだろうか。しかし、彼女には息子がいるのである。このことも彼女の自殺に関係している。
この息子、たぶん1歳半くらいだろう。目は開いているが、おそらく何も見えていない。それよりも、彼の服が印象的だ。なんの変哲も無い子供服だ。胸のところに大きな熊の顔のアップリケがついているつなぎである。そのあまりにありふれた子供服が、この難民キャンプというあまりにありえなさそうな状況の中に置かれることで、この子が置かれている悲劇性が際立つように見えるのである。
難民の生活には未来がない。難民を受け入れてくれる国に渡り、そこで新たに生活を築く以外に未来がないのである。未来が無い集団には秩序が無い。大人も子供もない。生活力が唯一の価値だ。サテライトは機知に富み、テレビアンテナの設置やら地雷の除去、除去した地雷の販売から武器の調達まで大人顔負けの働きを見せる。子供たち、と書いたが、キャンプのなかの子供たちは、「子供」という範疇を超えて社会の一大勢力となっている。それを率いているサテライトは、もはや並の「子供」ではない。ところが面白いことに、サテライトも含めて子供たち自身に自分たちの力に対する自覚がない。秩序が無い、と書いたが、力に対する自覚が無い代わりに、子供であるという自覚はあるので、そこに大人に対する敬意が残っており、それが辛うじて秩序をもたらしているのである。そこが子供、と言ってしまえばそれまでなのだが、より普遍的に、我々の社会のなかで似たような状況が時として現れることがあるのではないだろうか。つまり、当事者が自覚している以上の権力を持つ集団、ということだ。勿論、その逆の悲喜劇もあるだろう。当事者が自覚しているほどには力の無い、ドン・キホーテ的な個人や集団というものである。
米軍が侵攻してきたときの難民キャンプの激変も興味深い。人がひしめいていたキャンプが殆ど無人と化すのである。それまで自分たちを抑圧してきたフセイン政権が崩壊したことを知った人々が、我先に近隣の町へ出て仕事を探すというのである。人々の不在が、生命力の力強さを語る場面だ。人の温もりの残る、誰もいないベッドが何とも言えない生々しさを語るのと同じかもしれない。
出演しているのが本物の難民なので、演技に関しては荒削りだが、普遍性のあるテーマを雄弁に語る作品に仕上がっている。あまりに露骨に人間というものを語っているので、観た後にやりきれない気分に陥ってしまうが、素晴らしい作品であることは確かである。
人間であることを止めてしまいたくなる。人には欲とか我というものがある。人に限らず、生き物にはその生命を次世代に繋ぐという使命がある。自分の我を押し通していけば、当然、他者と利害が衝突することになる。人類の歴史は闘争の歴史であり、自然破壊の歴史である。しかも、その闘争や破壊は歴史の進展とともに規模が拡大している。やがては、自分の我のために自分自身を抹殺することになるのだろう。破壊や殺傷のための知恵を、なぜ闘争回避のために使うことができないのかと思う。個人どうしの争い事から国家間の戦争に至るまで、勝っても負けても当事者にとって得るものは何も無いと言ってよい。それは総論としては認識されている。だからこそ、我々の社会には様々な紛争解決の仕組みが用意されている。しかし、そうした仕組みは殆ど機能していない。人類に英知というものはないのか、と問いたい。
作品は冒頭から衝撃的である。少女の投身自殺のシーンだ。物語は彼女の死から3日ほど遡って始まる。舞台はイラク北部のクルド人難民キャンプ。主人公はそこで暮らす子供たち、なかでもリーダー格の少年サテライトと彼が恋心を寄せる新入りの難民アグリン。彼女が自殺する少女である。彼女はおそらく12歳くらいという設定ではないだろうか。しかし、彼女には息子がいるのである。このことも彼女の自殺に関係している。
この息子、たぶん1歳半くらいだろう。目は開いているが、おそらく何も見えていない。それよりも、彼の服が印象的だ。なんの変哲も無い子供服だ。胸のところに大きな熊の顔のアップリケがついているつなぎである。そのあまりにありふれた子供服が、この難民キャンプというあまりにありえなさそうな状況の中に置かれることで、この子が置かれている悲劇性が際立つように見えるのである。
難民の生活には未来がない。難民を受け入れてくれる国に渡り、そこで新たに生活を築く以外に未来がないのである。未来が無い集団には秩序が無い。大人も子供もない。生活力が唯一の価値だ。サテライトは機知に富み、テレビアンテナの設置やら地雷の除去、除去した地雷の販売から武器の調達まで大人顔負けの働きを見せる。子供たち、と書いたが、キャンプのなかの子供たちは、「子供」という範疇を超えて社会の一大勢力となっている。それを率いているサテライトは、もはや並の「子供」ではない。ところが面白いことに、サテライトも含めて子供たち自身に自分たちの力に対する自覚がない。秩序が無い、と書いたが、力に対する自覚が無い代わりに、子供であるという自覚はあるので、そこに大人に対する敬意が残っており、それが辛うじて秩序をもたらしているのである。そこが子供、と言ってしまえばそれまでなのだが、より普遍的に、我々の社会のなかで似たような状況が時として現れることがあるのではないだろうか。つまり、当事者が自覚している以上の権力を持つ集団、ということだ。勿論、その逆の悲喜劇もあるだろう。当事者が自覚しているほどには力の無い、ドン・キホーテ的な個人や集団というものである。
米軍が侵攻してきたときの難民キャンプの激変も興味深い。人がひしめいていたキャンプが殆ど無人と化すのである。それまで自分たちを抑圧してきたフセイン政権が崩壊したことを知った人々が、我先に近隣の町へ出て仕事を探すというのである。人々の不在が、生命力の力強さを語る場面だ。人の温もりの残る、誰もいないベッドが何とも言えない生々しさを語るのと同じかもしれない。
出演しているのが本物の難民なので、演技に関しては荒削りだが、普遍性のあるテーマを雄弁に語る作品に仕上がっている。あまりに露骨に人間というものを語っているので、観た後にやりきれない気分に陥ってしまうが、素晴らしい作品であることは確かである。