熊本熊的日常

日常生活についての雑記

思想ある建物

2008年07月21日 | Weblog
引き続き、須賀敦子全集(文庫版)を読んでいる。今、第4巻を読み終わろうとしているところである。そのなかで、「思想のある建物」という表現が出てきて、さてどうしたものかと思った。まだ先の話だが、東京に帰ってからの住まいのことが、そろそろ気になり出しているのである。果たして住まいというのは、そこで暮らす人間にどれほど影響を与えるものなのだろうか?

私自身は何度も書いているように貧乏人の倅なので、物心ついた頃から、いつかは庭のある一軒家に住みたいなどと思いながら年齢を重ねてきた。しかし、成長するにつれて、「庭のある一軒家」という小市民的な憧れがなんだか滑稽に思われて、そんなものはどうでもよくなってしまった。

今住んでいる家はテラスハウスである。建物の出来は、たぶん、日本よりも悪いように思う。特に、水廻りが貧弱だ。おそらく、このような家に住む人は、まともな料理などしないのだろうし、風呂にもそれほど関心がないのだろう。トイレもひどい。トイレはこの家だけではなく、勤務先の建物も、かなり立派なホテルの部屋のものも、いまひとつ流れがよくない。おそらく便器の形状をきちんと工夫していないのだろう。そうした細部の問題はさておき、町並みとしてはきれいである。きちんと建物の前の通りが確保され、統一感のある建物の形状であり、どの建物にも必ず庭が前面と背面についている。建物の高さが揃えられているので、空が広く明るく感じられて、歩いていると気分が良くなる。こうした町並みへの配慮は、住宅地のグレードに関係なく、それぞれの地域に応じてそれぞれに景観への配慮がなされている。

日本の町並みは、改めて指摘するまでもないだろう。成田空港から都心へ向かう鉄道の車窓に映るのは、およそ「思想」などというものとは無縁の家並である。細かく地割りがなされた宅地にそれぞれの住人が、多くの場合は敷地目一杯に建てた住宅が並ぶ。ひとつひとつの住宅は立派なものである。ところが、それらを町並みとして眺めると、がっかりしてしまうほど乱雑である。

昔、当時はまだECと呼ばれていた欧州の行政機関の報告書のなかで日本人の生活について表現されていた「ウサギ小屋に住む労働中毒者たち」という言葉が流行語のようになったことがあった。しかし「ウサギ小屋」と呼ばれていることの本質は、たぶん、家の広さのことではない、と思う。住まい方というのは、つまり、生き方である。そうしたことについての思想がなく、ただ目先のことに追われて働くだけの人々が住む場所、それを「小屋」と指摘されということなのではないか。

日本でもよく建築家と呼ばれる人たちが、家というものから生活や人生を語ることがあるが、そういうものを聞いてもあまり説得力を感じない。このブログにも今年4月27日付で宮脇檀の本を読んで考えたことを書いたが、住まい方とか生き方というものがハウツーの範疇から抜け切れていないように思うのである。

善し悪しはさておき、キリスト教とかイスラム教の世界というのは、それが人々の考え方や行動の基盤になっているということが、町並みに端的に現れているように見える。人生のなかで労働の持つ意味、安息の意味、そうしたものがかなり明確にあり、それゆえに住まい方の基本のようなものが自ずと決まってくるのだろう。やはり、器が先ということではないと思う。

町並みが乱雑だからといって、心ある人がそこで暮らすことができない、というわけではないだろう。所有権とか財産権に絡むことなので、区画整理がすぐにできるわけもない。今、目の前にある与えられた現実の中で、自分がいかに自分らしく生きるかということを考え実行すれば、それでよいのではないか。家に思想がなくても、自分に思想があれば、それでよいのではないか。