熊本熊的日常

日常生活についての雑記

モネだけの花

2008年07月09日 | Weblog
Courtauld Galleryの螺旋階段を登って最初の部屋に入ると、正面のマントルピースの上に花瓶に生けられた花の絵がある。静物画としては大きいが、高いところにあるので、うっかりすると素通りしてしまうかもしれない。しかし、ひとたび視界に入れば、その絵からしばらく目が離せなくなってしまう。その花はワイルド・マロウというのだそうだ。薄紫の小さな花がたくさん咲いている。おそらく、窓から光が差し込んでいるのだろう。やわらかだけれど力強い光が側面斜め上方から、左から右に向かって当たっている。こんな花が部屋にあるだけで、満ち足りた気分に浸ることができそうだ。私はこの絵が大好きである。

説明書きによれば、これはモネが自分のアトリエに飾っていた絵だという。画家が自分のために描く作品とは何なのだろう? 画家は売る為に絵を描く。それが商売だから、描きたくない絵を描かなければならないことだってあるだろう。果たしてモネは、意図してこの絵を未完のまま手もとに置いたのだろうか? 完成させるつもりが完成できなかったのだろうか? 意図して手もとに置いたとしたら、それは何故だろう? この花の絵は1881年から1882年頃の作とされている。あの睡蓮の絵を描き始めるのは1890年頃からだ。モネは睡蓮の絵も存命中は公開せず、筆を入れ続けたという。商才にも長けた画家であったようなので、売り絵はそれとして描く一方で、自分の欲求として納得のいくまで描かずにはいられない作品というものもあっただろう。このワイルド・マロウは、10年経って睡蓮に姿を変えたということなのだろうか。

「売り絵」といえば、73歳の小林秀雄が72歳の今日出海との対談のなかで、このようなことを言っている。
「自己を紛失するから、空虚なお喋りしか出来ないエゴイストが増えるのだ。自分が充実していれば、なにも特に自分の事を考えることはない。自分が充実していれば、無私になるでしょう。それは当り前な事でしょう。それが逆になっている。手前が全然ないから、他人に見放されると不安になるでしょう。だから画家が売り絵を描くのも、文士が売り原稿を書くのも、みんな、あれは不安なんですよ。ただ金のためじゃないと思うね。寂しいんですよ。僕はそう思っている。」(「小林秀雄全作品26 信ずることと知ること」新潮社 220頁)
モネの花の絵とは全く関係のないことなのだが、小林のこの言葉をちょっと思い出した。