昔、勉強しないといって、子供が母親に叱られて泣いていたことがたびたびあった。あるとき、母親がいなくなってから子供にこんな話をした。
ある瞬間を取り出したとき、人には無数の選択肢がある。例えば今、勉強をすることだってできるし、外に遊びに行ってしまうことだってできる。戸棚のお菓子をたべることもできるし、好きな本を読むことだってできる。どれが正解ということはない。自分で選んだことの結果を自分で受けるというだけのことだ。勉強はしたほうがいいかもしれないし、しなくてもいいのかもしれない。物事を知っていることで世の中が豊かで興味深く見えるようになるかもしれないし、知らないが為に醜いものを見なくて済むことだってある。今、その人にとってどうすることが一番良いことなのか、決まった答えなど無い。だから、本当に相手のことを思えば、沈黙せざるを得ないことだってある。少なくとも、他人のことで饒舌になれるのは、無責任であるか無能力であるか、その両方であるか、いずれにしてもろくな奴じゃない。だから、口うるさい奴の言うことは聞かなくてもよい。
子供は「えっ?」というような顔をしていた。何を思ったのか知らないが、それから子供は俄然、強気になり、叱られても泣かなくなった。そして相変わらず学校の成績は悲惨なままである。3月に休暇で帰国して子供に会ったとき、ちょうど春休みに入ったところだった。
「期末試験どうだった?」と尋ねると
「英語が追試。数学も追試かと思ったけど、大丈夫だったよ。」
「また追試かぁ。追試好きだなぁ。」
「まぁね。」と悪びれもせず答えてみせた。
最近、自分が読んで面白いと思った本があったので、以前に読んだ同じ作者の作品と併せて、それらの本が面白かったという話をメールに書いて子供に送った。フィリップ・クローデルの「灰色の魂」と「リンさんの小さな子」である。先日、「リンさんの小さな子」が学校の図書室にあったので読んだといって、その感想を書き送ってきた。なかなかよくできた文章で、楽しみながら読むことができた様子が伝わってきた。これでひとり、私の良き話し相手が増えるかもしれないと思うと嬉しかった。
今日は期末試験の最終日である。今度も追試を受けることになるのだろう。授業料を負担する立場からすれば落第は避けて欲しいのだが、試験の成績ごときをいちいち気にするような人間にはなって欲しくないとも思うのである。
ある瞬間を取り出したとき、人には無数の選択肢がある。例えば今、勉強をすることだってできるし、外に遊びに行ってしまうことだってできる。戸棚のお菓子をたべることもできるし、好きな本を読むことだってできる。どれが正解ということはない。自分で選んだことの結果を自分で受けるというだけのことだ。勉強はしたほうがいいかもしれないし、しなくてもいいのかもしれない。物事を知っていることで世の中が豊かで興味深く見えるようになるかもしれないし、知らないが為に醜いものを見なくて済むことだってある。今、その人にとってどうすることが一番良いことなのか、決まった答えなど無い。だから、本当に相手のことを思えば、沈黙せざるを得ないことだってある。少なくとも、他人のことで饒舌になれるのは、無責任であるか無能力であるか、その両方であるか、いずれにしてもろくな奴じゃない。だから、口うるさい奴の言うことは聞かなくてもよい。
子供は「えっ?」というような顔をしていた。何を思ったのか知らないが、それから子供は俄然、強気になり、叱られても泣かなくなった。そして相変わらず学校の成績は悲惨なままである。3月に休暇で帰国して子供に会ったとき、ちょうど春休みに入ったところだった。
「期末試験どうだった?」と尋ねると
「英語が追試。数学も追試かと思ったけど、大丈夫だったよ。」
「また追試かぁ。追試好きだなぁ。」
「まぁね。」と悪びれもせず答えてみせた。
最近、自分が読んで面白いと思った本があったので、以前に読んだ同じ作者の作品と併せて、それらの本が面白かったという話をメールに書いて子供に送った。フィリップ・クローデルの「灰色の魂」と「リンさんの小さな子」である。先日、「リンさんの小さな子」が学校の図書室にあったので読んだといって、その感想を書き送ってきた。なかなかよくできた文章で、楽しみながら読むことができた様子が伝わってきた。これでひとり、私の良き話し相手が増えるかもしれないと思うと嬉しかった。
今日は期末試験の最終日である。今度も追試を受けることになるのだろう。授業料を負担する立場からすれば落第は避けて欲しいのだが、試験の成績ごときをいちいち気にするような人間にはなって欲しくないとも思うのである。