熊本熊的日常

日常生活についての雑記

いきあたりばったり

2008年07月22日 | Weblog
昨日、ブログに家のことを書いていて思ったのだが、敢えて日本の「思想」とか物の考え方の基本を一言で表現するなら、「いきあたりばったり」ということではないのか。

まず、家や町並みがそうである。国家権力は後先考えずに取れるところから税金を徴収しようとするので、少しでも財産価値がある不動産を残して死のうものなら、残された人々の生活など考えもせずに相続税を課す。残された人々は税金を踏み倒すわけにもいかないので、仕方なくその不動産を切り売りする。その断片不動産を購入した人は断片のなかで最大限の自己主張をする家屋を、周囲の町並みなど考えもせずに建てる。この繰り返しにより、ウサギ小屋の街が出来上がるのである。

家並みだけが乱雑なのではない。冠婚葬祭のしきたりだってそうだろう。信心などないのに、部分的に宗教を持ち出すから奇怪な儀式になる。教会で結婚式を挙げた人が、仏教寺院で葬式をする、など日本では当り前のことだ。葬式には、その後も節目節目に法要があり、それぞれの所作や小道具類にいかにも意味があるかのようなふりをしているが、単に迷信や俗信を形式化しただけのことに過ぎない。結婚式も葬式も自分が深く関わるのは一生の間に数えるほどなので、ろくに考えもなく、業者の言いなりになって済ませるだけ、というのが大方の姿勢だろう。しかし、少しでも考えるという姿勢を持って、そうした儀式を見れば、それらがいかに支離滅裂であるか、考えたことがある人にはよくわかるだろう。

日本が戦った戦争もそうだ。日本軍の戦い方、外交、すべていきあたりばったりだ。先日、マンチェスターの産業博物館で見学した日本軍の特攻機「桜花」の説明書きには、戦後この特攻機を接収した連合軍ではこれを「Baka Bomb」と呼んでいたとあった。説明の必要はないだろう。特攻という発想が生まれること自体、奇怪というほかはない。そして、その特攻「作戦」を立案し実行に移した大本営という組織の人々は極めて限られた一部を除いて、戦後も「元作戦参謀」などという肩書きを恥ずかしげもなくぶら下げて、あちこちの企業で禄を食んでいたという。人の命を何の思慮分別もなく紙切れのように扱った当事者でありながら、そのことに何の責任も感じていないかのような振る舞いとはいえまいか。いきあたりばったりの究極のような人たちである。

いきあたりばったりの成れの果てが、今の我々の生活だ。それで先進国の一角を占め、世界の中でも最も物質的に恵まれた部類の生活を享受している。たいしたものだ。