早起きして、Doverへ行って来た。地元の駅を6時33分に出る電車に乗り、London Bridgeで7時8分発のMargate行きの電車に乗り換える。Dover Prioryにはほぼ定刻通り8時58分に着いた。
駅は町の中心から西へ外れた場所にある。今回、ここを訪れた目的は白亜の崖を見ることなのだが、その崖は町の東にある。まずは、町の中心部を通過しなければならない。朝、シリアルとバナナを食べてから住処を出たのだが、少し小腹が空いた。マックやケンタでもよいのだが、どうもああいう系の食べ物は好きになれない。なんというのか、食べていると妙に寂しくなるのである。食事というのは、食べたら元気がでるものだろう。あのファーストフードというのは人間の尊厳を奪うような気がしてならない。そう思いながら歩いていると、「Breakfast」という看板を出しているパブがあった。
The Eight Bellsという名前のそのパブは、店先にテラス席を設けてあり、いくつかのテーブルには常連と思しき老人たちがコーヒーや紅茶を飲みながら新聞を読んでいる。そうしたテーブルの間を通り抜けて店内に入り、カウンターのお姉さんに「朝ご飯が食べたいんだけど。」というと、大か小か?と尋ねるので、迷わず「小」にする。飲み物は紅茶。所謂「Full English Breakfast」というやつだが、この店はトーストの代わりにハッシュポテトがつく。料理が運ばれてきて皿の上を見たとき、思わず「えー!朝からハッシュポテトかよ!」とのけぞりたくなった。気を取り直して、皿の上のものを全て平らげ、紅茶に思い切りミルクを加えて、一息つく。このEnglish Breakfastの「English」を特徴付けているのはソーセージだろう。この味は英国でなければ味わえないと思う。旨いとか不味いとかいうのではなく、これこそ英国的な味だと思うのである。さらに言えば、このソーセージを一口大に切って、その断面に同じ皿の上にあるベークトビーンズを絡めると、なお一層英国的になる。自分が今どこにいるかなどということを意識することはあまりないのだが、このビーンズとソーセージを食べている瞬間だけは否応なく、「おっ、そうか、今、イギリスか。」と思う。
腹が膨れたところで、再び歩き始める。町と崖の間にDover Castleがあるのでついでに立ち寄ることにする。町と崖の間、というより、城があるのは白い崖の上であり、このあたりから東に向かって白亜の崖が続くのである。市街から城に向かってCastle Streetという細い通りがあるが、ここにはB&Bや小さなホテルが軒を連ねている。こうした家並が途切れて緑が深くなると同時に道路は上り坂になる。自動車が通る道はつづら折りで城のある高台を登るが、歩行者道は階段で一気に城の入口へ至る。
城の見学時間は午前10時からで、私が入口の料金所に着いた時にはまだ係の人がいなかった。道路には入場待ちの車が列をなしていた。そこへちょうど係の人が現れ、入場開始となった。私がこの入口から入場する今日最初の見学者である。入場料を支払う時、Wartime Tunnels Tourに参加するかと尋ねられたので、参加する、と答えると、その場でどこかへ電話して、何やら時間と番号を私の入場料の領収書に書き込んだ。10時20分から地下壕の見学ツアーに参加することになった。
Dover Castleが建てられたのは1180年頃だが、この地下に軍司令施設が建設されたのはナポレオン戦争の時である。その後、第二次世界大戦の時に現在の姿になり、1995年までその一部が使用されていたのだそうだ。地質が石灰質で掘削が比較的容易であるとはいえ、かなり大きな規模で、第二次大戦中はこの地下壕に海軍、陸軍、空軍の各司令部が置かれ、海軍中将バートナム・ラムゼイの居室や病院施設も設けられた。当然、ライフラインも完備しており、壕内の電話交換施設は、Dover市内の民間用設備をはるかに上回る処理能力を持っていたという。学生の頃、沖縄の豊見城にある海軍司令部壕跡を訪れたことがあるが、壕の歴史が比較にならないとはいえ、その施設としての充実の度合いの違いに愕然としてしまう。
戦争というのは外交の一環である。軍事組織や軍事施設・軍備を見れば、その国の外交姿勢、その背後にある国力が一目瞭然なのである、そうだ。このDover Castleの地下壕を見学して感じるのは、英国の国としての底力のようなものである。何百年にも亘って他国との緊張関係のなかで、自国のありかたを否応なく考えさせられていたであろう欧州の国の人々は、国際社会のなかでの立ち居振る舞いの感覚が日本人とは比べ物にならないほど研ぎすまされているのではないだろうか。英国も島国ではあるが、欧州大陸との地理的、政治的な距離という点では、島国である以前に欧州の一部であると思う。日本も朝鮮半島と近いとはいえ、その朝鮮半島はアジアにおける文化の中心とも言える中国圏のなかでは辺遠であり、英国とは比較にならないほど国際社会の緊張感が薄い場所であったと言えよう。
日本の近代化は、薩摩・長州を中核とする、それまではどちらかというと国家の傍流だった人々によって推進された。島国根性という言葉があるが、どこそこの国あるいは家の出身だから、というような他愛の無いことにこだわって物事を決めることの功罪が明治以降の日本の姿として具現化されているのだろう。薩長の出身だからといって、屑のような輩でも分不相応な要職に就くことができ、時代が激動のなかにあったが故に、それが薩長以外の人々に対しても「あんな馬鹿でも取り立てられるのなら、この自分が」という向上心を煽り、社会のダイナミズムを生んだという側面があったと思う。結果として、300年近い鎖国による歴史のある部分の空白を数十年という単位で挽回し、今日の日本があるのだろう。しかし、社会の変動が落ちつきはじめ、「屑でも要」という状況が固定化されるに及び、日本の国家としての舵取りが上手くいかなくなったことも事実だろう。それが太平洋戦争という国家的悲劇を生んだと言えると思う。
Dover Castleの敷地のなかに西暦50年前後に建設されたという灯台の遺構がある。つまり、当時この地はローマ帝国の一部であったということだ。これは英国最古の建造物のひとつに数えられるのだそうだ。イングランドの古名をアルビオン(Albion)というが、ローマ帝国の公用語ラテン語の「白い国」の意である。その「白」の理由は、このDover周辺の白亜の断崖だ。現在も浸食が続いているが、これは止まらないだろう。城の敷地には、このローマ時代の灯台跡に始まり、サクソン様式の教会、現在の城の原形となる12世紀頃の建物、19世紀の地下壕、1940年代に増設された地下壕がある。城の歴史が英国の歴史であり、見た目以上に興味深い場所である。
海から見れば、この城のあたりから東へ向かって白い断崖が続いているはずである。その一部はナショナル・トラストによって管理されている。尤も、ナショナル・トラストの管理は崖の部分だけで、ほんの少し内側は私有地である。よほどの事情がない限り、崖の上に建物を建てたりしないだろうが、その私有地とされる部分は一面の麦畑だ。既に穂が実りつつあり、遠目には緑がかった黄色の絨毯のように見える。
Dover CastleのConstable’s Gateを後にして道路沿いに15分ほど歩くとGateway to the White Cliffsという少し規模の大きい駐車場を備えたカフェ併設の案内所がある。多少の起伏はあるものの、この案内所を背にして右手が崖、左手が麦畑という径が続く。手摺も柵もなく、時々転落事故があるらしいが、それはもっともなことである。その径を1時間ほど歩くとSouth Foreland Lighthouseという灯台に着く。ここにはかなり昔から灯台が立っているのだそうだが、現在の建物は1843年に建てられたものである。1898年12月24日に世界最初の船舶無線がここで開始されたとある。
こうしてドーバー海峡を眺めると、やはり英国は欧州の一部なのだという実感が湧く。欧州大陸はすぐそこに見える。Dover Castleが立つ高台の足元にフェリーターミナルがあり、ひっきりなしにフェリーが往来している。埠頭ではフェリーが接岸すると、たくさんの大型トレーラーが吐き出され、それらが町に吸い込まれていく。その後に、埠頭に並んでいたトレーラーが動き出し、フェリーの中へと消えていく。フェリーが停泊している時間は30分くらいではなかろうか。着いたと思うと、出港していく。勿論、大陸との往来はフェリーだけではない。この海峡の地下にはトンネルがあり、鉄道による輸送もある。空路だってある。しかし、こうして実際に物の動きを目の当たりにすると、海峡の存在など取るに足らないもののように見えてくる。
それにしても、英国で暮らしていて不思議に思うのは、ロンドンに星の数ほどいる黒人やインド・アラブ系を、少しロンドンから離れると見かけなくなることである。以前にもこのブログに書いたかもしれないが、私が通勤に利用している地下鉄の乗客は明らかに白人より黒人のほうが多い。雨がひどい時などに利用するバスに至っては、乗客の8割近くは黒人だ。あるとき、ふと気になって数えてみたら、2階バスの1階部分に私を含めて23人の乗客がいて、このうち20人が黒人、私を含む残りの3人が東洋系で、運転手が唯一の白人だった。それが、コーンウォールに行っても、マンチェスターやヨークも、ロンドンから鉄道で2時間ほどの距離にある4月に訪れたHastingsも、そしてここDoverでも黒人を見かけないのである。インド・アラブ系も東洋人も極端に少ない。これはどういうことなのだろう?
メモ
Westcombe Park 0633発
London Bridge 0647着
London Bridge 0708発
Dover Priory 0858着
Dover Priory 1533発
Waterloo East 1704着
Waterloo East 1709発
London Bridge 1712着
London Bridge 1714発
Westcombe Park 1727着
以上の運賃 Cheap Day Return 25.40ポンド
駅は町の中心から西へ外れた場所にある。今回、ここを訪れた目的は白亜の崖を見ることなのだが、その崖は町の東にある。まずは、町の中心部を通過しなければならない。朝、シリアルとバナナを食べてから住処を出たのだが、少し小腹が空いた。マックやケンタでもよいのだが、どうもああいう系の食べ物は好きになれない。なんというのか、食べていると妙に寂しくなるのである。食事というのは、食べたら元気がでるものだろう。あのファーストフードというのは人間の尊厳を奪うような気がしてならない。そう思いながら歩いていると、「Breakfast」という看板を出しているパブがあった。
The Eight Bellsという名前のそのパブは、店先にテラス席を設けてあり、いくつかのテーブルには常連と思しき老人たちがコーヒーや紅茶を飲みながら新聞を読んでいる。そうしたテーブルの間を通り抜けて店内に入り、カウンターのお姉さんに「朝ご飯が食べたいんだけど。」というと、大か小か?と尋ねるので、迷わず「小」にする。飲み物は紅茶。所謂「Full English Breakfast」というやつだが、この店はトーストの代わりにハッシュポテトがつく。料理が運ばれてきて皿の上を見たとき、思わず「えー!朝からハッシュポテトかよ!」とのけぞりたくなった。気を取り直して、皿の上のものを全て平らげ、紅茶に思い切りミルクを加えて、一息つく。このEnglish Breakfastの「English」を特徴付けているのはソーセージだろう。この味は英国でなければ味わえないと思う。旨いとか不味いとかいうのではなく、これこそ英国的な味だと思うのである。さらに言えば、このソーセージを一口大に切って、その断面に同じ皿の上にあるベークトビーンズを絡めると、なお一層英国的になる。自分が今どこにいるかなどということを意識することはあまりないのだが、このビーンズとソーセージを食べている瞬間だけは否応なく、「おっ、そうか、今、イギリスか。」と思う。
腹が膨れたところで、再び歩き始める。町と崖の間にDover Castleがあるのでついでに立ち寄ることにする。町と崖の間、というより、城があるのは白い崖の上であり、このあたりから東に向かって白亜の崖が続くのである。市街から城に向かってCastle Streetという細い通りがあるが、ここにはB&Bや小さなホテルが軒を連ねている。こうした家並が途切れて緑が深くなると同時に道路は上り坂になる。自動車が通る道はつづら折りで城のある高台を登るが、歩行者道は階段で一気に城の入口へ至る。
城の見学時間は午前10時からで、私が入口の料金所に着いた時にはまだ係の人がいなかった。道路には入場待ちの車が列をなしていた。そこへちょうど係の人が現れ、入場開始となった。私がこの入口から入場する今日最初の見学者である。入場料を支払う時、Wartime Tunnels Tourに参加するかと尋ねられたので、参加する、と答えると、その場でどこかへ電話して、何やら時間と番号を私の入場料の領収書に書き込んだ。10時20分から地下壕の見学ツアーに参加することになった。
Dover Castleが建てられたのは1180年頃だが、この地下に軍司令施設が建設されたのはナポレオン戦争の時である。その後、第二次世界大戦の時に現在の姿になり、1995年までその一部が使用されていたのだそうだ。地質が石灰質で掘削が比較的容易であるとはいえ、かなり大きな規模で、第二次大戦中はこの地下壕に海軍、陸軍、空軍の各司令部が置かれ、海軍中将バートナム・ラムゼイの居室や病院施設も設けられた。当然、ライフラインも完備しており、壕内の電話交換施設は、Dover市内の民間用設備をはるかに上回る処理能力を持っていたという。学生の頃、沖縄の豊見城にある海軍司令部壕跡を訪れたことがあるが、壕の歴史が比較にならないとはいえ、その施設としての充実の度合いの違いに愕然としてしまう。
戦争というのは外交の一環である。軍事組織や軍事施設・軍備を見れば、その国の外交姿勢、その背後にある国力が一目瞭然なのである、そうだ。このDover Castleの地下壕を見学して感じるのは、英国の国としての底力のようなものである。何百年にも亘って他国との緊張関係のなかで、自国のありかたを否応なく考えさせられていたであろう欧州の国の人々は、国際社会のなかでの立ち居振る舞いの感覚が日本人とは比べ物にならないほど研ぎすまされているのではないだろうか。英国も島国ではあるが、欧州大陸との地理的、政治的な距離という点では、島国である以前に欧州の一部であると思う。日本も朝鮮半島と近いとはいえ、その朝鮮半島はアジアにおける文化の中心とも言える中国圏のなかでは辺遠であり、英国とは比較にならないほど国際社会の緊張感が薄い場所であったと言えよう。
日本の近代化は、薩摩・長州を中核とする、それまではどちらかというと国家の傍流だった人々によって推進された。島国根性という言葉があるが、どこそこの国あるいは家の出身だから、というような他愛の無いことにこだわって物事を決めることの功罪が明治以降の日本の姿として具現化されているのだろう。薩長の出身だからといって、屑のような輩でも分不相応な要職に就くことができ、時代が激動のなかにあったが故に、それが薩長以外の人々に対しても「あんな馬鹿でも取り立てられるのなら、この自分が」という向上心を煽り、社会のダイナミズムを生んだという側面があったと思う。結果として、300年近い鎖国による歴史のある部分の空白を数十年という単位で挽回し、今日の日本があるのだろう。しかし、社会の変動が落ちつきはじめ、「屑でも要」という状況が固定化されるに及び、日本の国家としての舵取りが上手くいかなくなったことも事実だろう。それが太平洋戦争という国家的悲劇を生んだと言えると思う。
Dover Castleの敷地のなかに西暦50年前後に建設されたという灯台の遺構がある。つまり、当時この地はローマ帝国の一部であったということだ。これは英国最古の建造物のひとつに数えられるのだそうだ。イングランドの古名をアルビオン(Albion)というが、ローマ帝国の公用語ラテン語の「白い国」の意である。その「白」の理由は、このDover周辺の白亜の断崖だ。現在も浸食が続いているが、これは止まらないだろう。城の敷地には、このローマ時代の灯台跡に始まり、サクソン様式の教会、現在の城の原形となる12世紀頃の建物、19世紀の地下壕、1940年代に増設された地下壕がある。城の歴史が英国の歴史であり、見た目以上に興味深い場所である。
海から見れば、この城のあたりから東へ向かって白い断崖が続いているはずである。その一部はナショナル・トラストによって管理されている。尤も、ナショナル・トラストの管理は崖の部分だけで、ほんの少し内側は私有地である。よほどの事情がない限り、崖の上に建物を建てたりしないだろうが、その私有地とされる部分は一面の麦畑だ。既に穂が実りつつあり、遠目には緑がかった黄色の絨毯のように見える。
Dover CastleのConstable’s Gateを後にして道路沿いに15分ほど歩くとGateway to the White Cliffsという少し規模の大きい駐車場を備えたカフェ併設の案内所がある。多少の起伏はあるものの、この案内所を背にして右手が崖、左手が麦畑という径が続く。手摺も柵もなく、時々転落事故があるらしいが、それはもっともなことである。その径を1時間ほど歩くとSouth Foreland Lighthouseという灯台に着く。ここにはかなり昔から灯台が立っているのだそうだが、現在の建物は1843年に建てられたものである。1898年12月24日に世界最初の船舶無線がここで開始されたとある。
こうしてドーバー海峡を眺めると、やはり英国は欧州の一部なのだという実感が湧く。欧州大陸はすぐそこに見える。Dover Castleが立つ高台の足元にフェリーターミナルがあり、ひっきりなしにフェリーが往来している。埠頭ではフェリーが接岸すると、たくさんの大型トレーラーが吐き出され、それらが町に吸い込まれていく。その後に、埠頭に並んでいたトレーラーが動き出し、フェリーの中へと消えていく。フェリーが停泊している時間は30分くらいではなかろうか。着いたと思うと、出港していく。勿論、大陸との往来はフェリーだけではない。この海峡の地下にはトンネルがあり、鉄道による輸送もある。空路だってある。しかし、こうして実際に物の動きを目の当たりにすると、海峡の存在など取るに足らないもののように見えてくる。
それにしても、英国で暮らしていて不思議に思うのは、ロンドンに星の数ほどいる黒人やインド・アラブ系を、少しロンドンから離れると見かけなくなることである。以前にもこのブログに書いたかもしれないが、私が通勤に利用している地下鉄の乗客は明らかに白人より黒人のほうが多い。雨がひどい時などに利用するバスに至っては、乗客の8割近くは黒人だ。あるとき、ふと気になって数えてみたら、2階バスの1階部分に私を含めて23人の乗客がいて、このうち20人が黒人、私を含む残りの3人が東洋系で、運転手が唯一の白人だった。それが、コーンウォールに行っても、マンチェスターやヨークも、ロンドンから鉄道で2時間ほどの距離にある4月に訪れたHastingsも、そしてここDoverでも黒人を見かけないのである。インド・アラブ系も東洋人も極端に少ない。これはどういうことなのだろう?
メモ
Westcombe Park 0633発
London Bridge 0647着
London Bridge 0708発
Dover Priory 0858着
Dover Priory 1533発
Waterloo East 1704着
Waterloo East 1709発
London Bridge 1712着
London Bridge 1714発
Westcombe Park 1727着
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