琴線に触れる、という言葉がある。このようないかにも繊細な感覚は自分には無縁だと思っていた。最近、本を読んだり、絵を観たり、風景を眺めたりしていて、ふいに思考の地平がすうっと広がるという経験をするようになった。一方で、薄っぺらな内容の話にはついていけなくなった。結果として、孤独はますます深くなったが、それは決して荒涼としたものではなく、ぬくぬくと心地よいものだと思えるようになった。ちょうど、くまのプーさんが、大好物の蜂蜜欲しさに風船で木の高い場所にある蜂の巣にたどりついたような感じに似ている。蜂に襲われて風船は割れてしまい、プーさんは木の上に取り残されてしまう。しかし、うまい具合に上半身がその洞の巣のなかにすっぽり入り、好物の蜂蜜に囲まれて嬉しげなプーさんの様子は、良書に出会った時や愉しい場所を見つけた時の心情に似ていると思う。文字通り自分だけの世界にトリップするのである。生活があるから、いつかはその場所を離れ地に足をつけなければならない。それはわかっているのだが、ぐずぐずと快楽に浸っていたい、そんな感じである。
ひとりの時間というのは大切にしたいが、琴線に触れる相手というのも何人か身の回りに確保しておかなければならないとは思っている。会社勤めをしていると、人間関係はどうしても同業の人が多くなってしまう。それはそれで良いのだが、そうした人々との会話の内容が、職場や仕事の話だけというのは聞いていて辛い。若い頃なら、それも新たな見聞のひとつとして楽しく拝聴できた。しかし、今となっては、そのような話は刹那的に感じられて、自分の問題として捉えることができない。もう気持ちは勤め先を離れ、死ぬまでの時間をどう生きるかという方向に向いている。この期に及んで「世間」だの「普通」だのを気にする奴は目障りだ。中途半端な関係は、もういらない。自分というものをしっかりと持った人に出会いたいと切に思う。
ひとりの時間というのは大切にしたいが、琴線に触れる相手というのも何人か身の回りに確保しておかなければならないとは思っている。会社勤めをしていると、人間関係はどうしても同業の人が多くなってしまう。それはそれで良いのだが、そうした人々との会話の内容が、職場や仕事の話だけというのは聞いていて辛い。若い頃なら、それも新たな見聞のひとつとして楽しく拝聴できた。しかし、今となっては、そのような話は刹那的に感じられて、自分の問題として捉えることができない。もう気持ちは勤め先を離れ、死ぬまでの時間をどう生きるかという方向に向いている。この期に及んで「世間」だの「普通」だのを気にする奴は目障りだ。中途半端な関係は、もういらない。自分というものをしっかりと持った人に出会いたいと切に思う。