熊本熊的日常

日常生活についての雑記

スクラップ

2008年07月15日 | Weblog
昔、仕事の絡みもあって、新聞や雑誌の記事のスクラップをしていた。仕事上の必要が無くなった後も、東京で暮らしている頃は、興味のある記事を職場のコピー機で縮小してA5版のノートに貼付けていた。こちらに来る時、未整理の記事とノートを持参したが、そのままになっていた。久しぶりにノートを開き、続きの貼付けをした。記事はちょうど去年の今時分のものである。

スクラップ自体は子供の頃にもやっていた。小学校に上がる前のことである。以前にも書いたが、乗り物が大好きで、鉄道の写真が載っている記事を切り取っては大きなスケッチブックに貼付けていた。新聞に鉄道の写真が掲載されるのは、多くの場合、事故とストライキの記事である。だから、スクラップの更新はそれほど進まない、はずなのだが、今眺めてみると驚くほど事故が多い。その写真が、当時の私の絵本代わりになっていたのである。ある風景が見る立場によって全く違って見える極端な例である。

スクラップの面白さは、ある程度時間を置いて読み直した時の発見にあると思う。記事の内容もさることながら、その記事を選んだ自分が、何を思っていたのか、ということを思い返すのも楽しい。

日経新聞の日曜版にある「美の美」というコーナーを楽しみにしていたのだが、去年の7月は「ラファエル前派の精神」と題して4回のシリーズで英国の近代絵画を取り上げていた。1回目と2回目でミレイ、ハント、ロセッティを特集し、3回目はその次の世代にあたるバーン=ジョーンズ、4回目がウィリアム・モリスだった。彼等の作品は勿論、ロンドンでじっくりと鑑賞することができる。私がロンドンに来ることが決まったのが昨年7月下旬だったので、この特集に何やら運命的な巡り合わせのようなものを感じたものである。

しかし、彼等の作品が特別好きというわけでもない。ただ、彼等の存在や画風は、当時の産業革命による中産階級の勃興という社会の変化と密接に関連している。なによりも、それまで王侯貴族や教会が中核的需要者であった美術品市場に新興中産階級が参入してきたことで、美術品に求められる主題や趣味が変容したことの影響は大きい。このことは、美というものが独自に存在するのではなく、それを感じる人間が創り出す虚構のようなものであるという側面を改めて示している。絵をどう見るかというのは、見る人の勝手なのだが、やはりそれが描かれた背景についてある程度の知識を持っておかないと、見えるはずのものが見えなくなってしまう。それは美術品に限ったことではないだろう。同じ物、同じ風景を見ていても、自分に見えているものが他人に見えているものと同じであるとは限らない。

いつものように、話がどんどん横道へ逸れていくのだが、要するに、この1年で、自分を取り巻く多くのことが変わったなと思ったのである。