熊本熊的日常

日常生活についての雑記

あの「サヨナラ」の話

2008年07月23日 | Weblog
昨日、アマゾンから本が届いた。7月17日付のブログに書いたアン・リンドバーグの本もそのなかにある。さっそく「サヨナラ」の話のところを読んで、改めて嬉しくなった。以下、その部分の引用である。

「サヨナラ」を文字どおりに訳すと、「そうならなければならないなら」という意味だという。これまでに耳にした別れの言葉のうちで、このようにうつくしい言葉をわたしは知らない。Auf WiedersehenやAu revoirやTill we meet againのように、別れの痛みを再会の希望によって紛らそうという試みを「サヨナラ」はしない。目をしばたたいて涙を健気に抑えて告げるFarewellのように、別離の苦い味わいを避けてもいない。
 Farewellは父親の別れの言葉だ。「息子よ、世の中に出て行き、しっかりやるんだぞ」という励ましであり、戒めであり、希望、また信頼の表現なのだ。しかし、Farewellはその瞬間自体のもつ意味を見落としている。別れそのものについては何も語っていない。その瞬間の感情は隠され、ごくわずかのことしか表現されていない。
 一方、Good-by(神があなたとともにありたもうように)とAdiosは多くを語りすぎている。距離に橋を架けるといおうか、むしろ距離を否定している。Good-byは祈りだ。高らかな叫びだ。「行かないで! とても耐えられないわ! でもあなたは一人じゃないのよ。神さまが見守っていてくださるわ。いっしょにいてくださるわ。神さまの御手が必ずあなたとともにあるでしょう」。その言葉のかげには、ひそやかな、「わたしもよ。わたしもあなたといっしょにいますからね。あなたを見守っているのよ-いつも」というささやきが隠されている。それは、母親のわが子への別れの言葉だ。
 けれども「サヨナラ」は言いすぎもしなければ、言い足りなくもない。それは事実をあるがままに受けいれている。人生の理解のすべてがその四音のうちにこもっている。ひそかにくすぶっているものを含めて、すべての感情がそのうちに埋み火のようにこもっているが、それ自体は何も語らない。言葉にしないGood-byであり、心をこめて手を握る暖かさなのだ-「サヨナラ」は。
(アン・モロー・リンドバーグ著 中村妙子訳「翼よ、北に」みすず書房 248-249頁)

もう何も言うことはない。こういう時は日本人であることを誇らしく思う。