熊本熊的日常

日常生活についての雑記

「Yacoubian Building(邦題:ヤコービエン・ビルディング)」

2008年07月06日 | Weblog
主催者の不手際で字幕なしのものを観る羽目になってしまった。希望すればチケットを払い戻すこともできたが、私にとってはアラビア語も英語も似たようなものだろうと思い、そのまま観て来た。本作は、昨年東京で開催されたアラブ映画祭の出品作品で、事前にウエッブで日本語による解説を読んでいたので、なんとなく全体の流れはわかり、思いの外、楽しく観ることができた。

この作品は英国の植民地時代にカイロに建てられたヤコービエン・ビルディングという建物に住む現代のエジプトの人々の話である。ビルの中は金持ちが住んでいたり、事務所に使っていたりするのだが、屋上には勝手に移り住んできたと思しき人々がひしめいて住んでいる。この建物に暮らす人々のそれぞれの人生が、現代のエジプト社会のある側面を象徴するように物語が作られている。作品の構成は所謂グランド・ホテル方式だ。

言葉がわからないので、あまり多くは語ることができないのだが、登場人物、殊に金持ちの男性諸氏がことごとく欲望アブラギッシュという感じに描かれている。こんな作品を外国で上映してしまってよいのだろうかと、他人事ながら心配になってしまうほどだ。様々な社会階層の人々がひとつの建物で暮らすというところに、現代エジプトの社会を暗示させているとのことなので、ある程度は登場人物のキャラクターのある特質を強調しなければならないという事情は理解できる。それにしても分かり易過ぎはしないか? 貧困層出身の学生で、就職が思うようにできず、イスラム原理主義に走ってしまうというエピソードもある。これも、確かに、物事を単純化すればそのように描くことができないこともないだろうが、果たして原理主義とは本当にそういうものなのか、という疑問が湧いてしまう。

その原理主義運動に走った青年が、運動の一環として体制側の人物を暗殺するという場面がある。たまたまその暗殺対象が、学生デモで警察に逮捕されたときに自分の取り調べをした警察の人間だった。青年は暗殺実行の際に撃たれて倒れるのだが、その拷問のような取り調べの記憶がよみがえり、最後の力を振り絞って立ち上がり、その警察官僚に向かって銃を撃つ。そして倒れた相手に近寄り、執拗に銃弾を浴びせる。それは原理主義運動の大義を貫徹するための行為なのか、個人的な怨讐の発露なのか、微妙な表現である。どれほど立派な大義のある運動でも、その運動の主体はひとりひとりの人間である。当然、そこに個人の感情が入り込む余地がある。それが思考の合理性に多かれ少なかれ影響を与えるのは自然なことだろう。つまり、人間が主体である限り、そこには絶対的な善も悪も無いのである。青年が血まみれになりながら、拷問を受けた記憶を支えに立ち上がる場面に、正義というものの脆弱性を見る思いがした。

改めて断っておくが、映像と若干の予備知識だけでこの作品を語っているので、私の誤解が多分にあるだろう。あくまでも印象を語っただけである。それでも、161分とやや長い作品の割には、物語の展開がテンポ良く、言葉がわからなくても楽しく鑑賞することができた。