熊本熊的日常

日常生活についての雑記

さようなら

2008年07月17日 | Weblog
須賀敦子のエッセイのなかに、アン・リンドバーグが日本語の「さようなら」という言葉の意味を知って感動していたという話がある。

「さようなら」というのは「然様ならば、ごきげんよう」の短縮されたものだということを、以前、ラジオかテレビで耳にしたことがある。この「然様ならば」が「さようなら(→さよなら)」「さあらば(→さらば)」となったのだという。この「然様ならば」というのは、「そうならねばならぬのなら」ということで、つまり「お別れするのはお名残惜しゅうございますが、お別れしなければならないのなら、仕方のないことです。どうかお元気でお過ごしください。」という奥行きの深いことばなのである。外国語では、英語の「グッドバイ」は「神が汝と共にあれ」という意味だそうだが、仏語の「アディユ」、独語の「アウフフィーダーゼーエン」、北京語の「ツァイチェン」などは「またお目にかかりましょう」という意味である。「さようなら」は、これらの外国語での別れの挨拶とは全く異質の成り立ちがあるということだ。

私は、この「さようなら」に象徴される日本文化が本来持っていた潔さが好きである。建物や町並みにも、そうした消え去るものを追わない諦観のようなものがあった。日本の伝統的家屋が木と紙とでできているのは、そうした素材が比較的容易に大量に利用できた、とか、地震や暴風雨などの自然災害が多いので短工期で竣工できる素材と工法が求められた、というような合理的な理由もあるのだろうが、文化の根底に「形あるもの、やがては壊れる」という諦観があるように思うのである。

潔く諦めるためには、自分なりにやれるだけのことはやったという充実感がないといけない。「人事を尽くして天命を待つ」という言葉があるが、人事を尽くさなければ、天命を待つという心境には至らないものである。壊れることを前提としながらも、できるだけの手を尽くすというのが、本来の日本の文化であったように思う。その手を尽くした仕事に美しさが宿るのである。尽くした末に崩壊するなら、それは仕方のないことでもあるし、その崩壊自体が美しく感じられるものである。「さようなら」という言葉の美しさは、諦観に至るほど相手に尽くしたという、茶の湯にも通じる思想に根ざしたものだと思う。そうした自国の言葉の深さに異国の人が感動したという話を聞くと、素直に嬉しいものである。

この「さようなら」についてのアン・リンドバーグの話は「翼よ、北に」という本の中に登場するのだそうだ。是非、読んでみたい。