Royal Academy of Arts(RAA)で開催されている「Vilhelm Hammershoi: The Poetry of Silence opens to critical acclaim」という作品展を観て来た。Hammershoiのoには斜線が入るのだが、文字化けしそうなので、oのままにしてある。
かつての同僚にoに斜線の入る文字が名前に含まれている人がいた。ホルタさんという人だったが、彼がもともとどこの国の人なのかは知らない。当時、彼はニューヨークに住んでいた。とても流暢に日本語を話す人だったので、彼と私との会話は全て日本語だった。最後に会ったのは10年近く前、偶然、東京からニューヨークへ向かう飛行機の中で一緒になった。彼はそのままニューアークで降り、私はボストンへの便に乗り継ぐので、飛行機を降りたところで別れた。
Hammershoiはデンマークの人である。RAAのメルマガを開いた時、そこに掲載されていた絵になんとなく見覚えがあった、と感じた。しかし、たぶん、私は彼の作品を観るのはこれが初めてである。彼の名前すら知らなかったのだから。Hammershoiは「ハンマースホイ」と表記するようである。
(http://www.shizukanaheya.com/)
彼の作品は、自分の住んでいる家の中を描いたものが多い。同じ部屋を微妙に視点を変えてみたり、壁の絵を替えてみたり、テーブルの場所を動かしてみたり、という具合にして作品を仕上げていく。近所の建物や旅先での風景を描いた作品もあるが、近所の建物もいろいろな角度から見たものを描いている。どの作品にも人物が登場しない。街の風景が無人ということはないだろうと思うのだが、誰もそこにいない。部屋の風景では、そこに自分の妻を描いたものも少なくないが、部屋にいる妻を描いたのではなく、描いた部屋のなかに妻がいる、という絵である。その部屋も、まるで空き家のようである。生活の匂いがしない。確かに、テーブルの上には空いた皿があったり、使いかけのバターの乗った皿があったり、マグカップが置いてあったりする作品もある。でも、そこに生活の時間が流れているようには見えないのである。
室内の風景という点ではフェルメールを彷彿させ、人のいない風景という点ではエドワード・ホッパーやルネ・マグリットを想起させるのだが、絵の語りがそれらの作品とは全く違うと思う。さすがにフェルメールの時代は、絵の中に様々な寓意が隠されていて、今となってはそれらが全て解読できるわけではないのだが、それでも一枚の絵が一冊の書物に匹敵する内容を持っているかのような饒舌さが感じられる。近代以降の絵画作品は、メディアの多様化大衆化のなかで、絵画ならではの表現を追求するものへと変容しているように思う。つまり、寓意性や物語性に代わって、美あるいは人間の本質のようなものを具象化してみせる芸術性に価値がおかれるようになったと思う。エドワード・ホッパーが描いているのは生活者の孤独というものだろう。その作品には無人の街や部屋を描いたものも少なくなく、そうした作品のなかで私がすぐに思い浮かべるのは「Early Sunday Morning」である。
私が通っていた公立中学では、学校行事のようなものとして、毎年、学年毎に文集をまとめていた。中学1年の時、私は美術の教科書に載っていたホッパーの「Early Sunday Morning」を題材にして「日曜日」という牧歌的な詩を創って文集に載せた。その詩は覚えていないが、子供らしい他愛の無いものだったということは覚えている。
さて、ハンマースホイの作品だが、モネの積み藁や睡蓮のように、部屋の中の風景をモチーフにしながら、様々に同じ物を描くことによって生活を表現しているのではないかと思った。不在を描くことにより、そこにあるはずのものを浮かび上がらせているのではないだろうか。無いものを描いているのだから、いくら描いても終わるということはなく、結果として同じような作品がいつまでも製作され続けたのだろう。こうして同じ部屋の絵を何枚も観ると、その不在の存在感が気になるのである。
ところで、ホルタさんは今頃どこで何をしているのだろう?
かつての同僚にoに斜線の入る文字が名前に含まれている人がいた。ホルタさんという人だったが、彼がもともとどこの国の人なのかは知らない。当時、彼はニューヨークに住んでいた。とても流暢に日本語を話す人だったので、彼と私との会話は全て日本語だった。最後に会ったのは10年近く前、偶然、東京からニューヨークへ向かう飛行機の中で一緒になった。彼はそのままニューアークで降り、私はボストンへの便に乗り継ぐので、飛行機を降りたところで別れた。
Hammershoiはデンマークの人である。RAAのメルマガを開いた時、そこに掲載されていた絵になんとなく見覚えがあった、と感じた。しかし、たぶん、私は彼の作品を観るのはこれが初めてである。彼の名前すら知らなかったのだから。Hammershoiは「ハンマースホイ」と表記するようである。
(http://www.shizukanaheya.com/)
彼の作品は、自分の住んでいる家の中を描いたものが多い。同じ部屋を微妙に視点を変えてみたり、壁の絵を替えてみたり、テーブルの場所を動かしてみたり、という具合にして作品を仕上げていく。近所の建物や旅先での風景を描いた作品もあるが、近所の建物もいろいろな角度から見たものを描いている。どの作品にも人物が登場しない。街の風景が無人ということはないだろうと思うのだが、誰もそこにいない。部屋の風景では、そこに自分の妻を描いたものも少なくないが、部屋にいる妻を描いたのではなく、描いた部屋のなかに妻がいる、という絵である。その部屋も、まるで空き家のようである。生活の匂いがしない。確かに、テーブルの上には空いた皿があったり、使いかけのバターの乗った皿があったり、マグカップが置いてあったりする作品もある。でも、そこに生活の時間が流れているようには見えないのである。
室内の風景という点ではフェルメールを彷彿させ、人のいない風景という点ではエドワード・ホッパーやルネ・マグリットを想起させるのだが、絵の語りがそれらの作品とは全く違うと思う。さすがにフェルメールの時代は、絵の中に様々な寓意が隠されていて、今となってはそれらが全て解読できるわけではないのだが、それでも一枚の絵が一冊の書物に匹敵する内容を持っているかのような饒舌さが感じられる。近代以降の絵画作品は、メディアの多様化大衆化のなかで、絵画ならではの表現を追求するものへと変容しているように思う。つまり、寓意性や物語性に代わって、美あるいは人間の本質のようなものを具象化してみせる芸術性に価値がおかれるようになったと思う。エドワード・ホッパーが描いているのは生活者の孤独というものだろう。その作品には無人の街や部屋を描いたものも少なくなく、そうした作品のなかで私がすぐに思い浮かべるのは「Early Sunday Morning」である。
私が通っていた公立中学では、学校行事のようなものとして、毎年、学年毎に文集をまとめていた。中学1年の時、私は美術の教科書に載っていたホッパーの「Early Sunday Morning」を題材にして「日曜日」という牧歌的な詩を創って文集に載せた。その詩は覚えていないが、子供らしい他愛の無いものだったということは覚えている。
さて、ハンマースホイの作品だが、モネの積み藁や睡蓮のように、部屋の中の風景をモチーフにしながら、様々に同じ物を描くことによって生活を表現しているのではないかと思った。不在を描くことにより、そこにあるはずのものを浮かび上がらせているのではないだろうか。無いものを描いているのだから、いくら描いても終わるということはなく、結果として同じような作品がいつまでも製作され続けたのだろう。こうして同じ部屋の絵を何枚も観ると、その不在の存在感が気になるのである。
ところで、ホルタさんは今頃どこで何をしているのだろう?