「乾いた性」という表現にときどき出くわすが、乾いていない性というものがあるのだろうか? 「愛」と呼ばれる感情は自己愛の肥大した形態に過ぎないだろう。相手に向けていると信じている「愛」も、相手から向けられていると思いこんでいる「愛」も、よくよくみれば自分から自分へ向けられたものだ。世の中の決まり事として、「愛」によって結ばれたふたりが幸せな家庭を築き、子孫を育み、その子孫がそれぞれに幸福な家庭を築き、世代を超えて「愛」が継承されていく、というのが模範解答なのだろう。できもしない模範解答に溺れている人々がいかに多いことか。
伊木一郎が津上京子と関係を持つようになり、その刹那的な関係が一郎のなかで一巡したと感じられるにようになった頃、偶然、京子が自分の腹違いの妹かもしれないという話が一郎の父親と親しくしていた人からもたらされる。そのときの一郎の動揺が、この話を小説にするのだろう。その動揺を契機に、一郎と父親との関係、人生の輪廻、という物語の広がりが生まれる。一郎のひととなりにしても、その動揺によって読者に多少の安心感を与えているだろう。一郎が冷血な嫌悪すべき存在になるか、読者にとって自己を投影する余地のある人物になるか、読者と一郎との距離が一郎の動揺によって後者へ傾くのではないだろうか。
血のつながりというものが特別の関係であってほしいという願望や、愛情というものが神聖な感情であるという幻想があるとすれば、それは人が本質的に孤独であるからだ。人はないものを崇め求めるのである。そうした願望や幻想を追い求める世の中というのは、滑稽にも見えるかもしれないが、健全であると言えるのではないか。幻想が幻想のままに輝いているうちが、人は幸福でいられるのだと思う。
伊木一郎が津上京子と関係を持つようになり、その刹那的な関係が一郎のなかで一巡したと感じられるにようになった頃、偶然、京子が自分の腹違いの妹かもしれないという話が一郎の父親と親しくしていた人からもたらされる。そのときの一郎の動揺が、この話を小説にするのだろう。その動揺を契機に、一郎と父親との関係、人生の輪廻、という物語の広がりが生まれる。一郎のひととなりにしても、その動揺によって読者に多少の安心感を与えているだろう。一郎が冷血な嫌悪すべき存在になるか、読者にとって自己を投影する余地のある人物になるか、読者と一郎との距離が一郎の動揺によって後者へ傾くのではないだろうか。
血のつながりというものが特別の関係であってほしいという願望や、愛情というものが神聖な感情であるという幻想があるとすれば、それは人が本質的に孤独であるからだ。人はないものを崇め求めるのである。そうした願望や幻想を追い求める世の中というのは、滑稽にも見えるかもしれないが、健全であると言えるのではないか。幻想が幻想のままに輝いているうちが、人は幸福でいられるのだと思う。