熊本熊的日常

日常生活についての雑記

絶対尺度

2009年01月03日 | Weblog
読んだ本や観た映画を紹介し合う仲の友人がいる。その人が「なぜ君は絶望と闘えたのか」について書いてきた。元旦に帰省したら実家にその本があったので読んだというのである。

死刑の是非というのは折に触れて大きな議論を巻き起こしているが、今のところ、日本では存続している制度である。死刑の是非以前に、刑罰とは何かというところから考える必要があると思う。結論から言えば、私にはわからない。

絶対的な善とか悪というものはあるだろうか? 人を殺すことは事情の如何にかかわらず悪いことなのだろうか? もし、そうだとしたら、人を殺したという理由で人を殺すことも悪いことだ、ということになるだろう。戦争下では、敵国の人間を殺すことは賞賛されるべきこととなる。殺す相手は兵隊だけではなく、銃後の一般市民でも同じことだ。もっと卑近な例を持ち出せば、嘘をつくことは悪いことだろうか? 人を救う嘘だってあるだろうし、人を絶望させる正直だってあるだろう。

善悪とは社会の文脈のなかで規定される尺度であろう。人間の行為それ自体に意味があるわけではなく、それが社会のなかに与える影響に意味が与えられるということだ。平穏な生活のなかで、突然命を奪われるようなことが許容されてしまうのなら、そこで暮らす人々の日常は不安と恐怖に満ち溢れ、人と人との間の信用に多くを依存する社会の仕組みが機能しなくなってしまう。その暗黙の安心を維持する方便として、善悪というものがあると思う。そして、より基本的な信用や信頼の枠組みは法律という明文化されたものによって構成するということだろう。

善悪や法律という社会規範を維持するには、それを侵犯することに対する罰則を設けることが最もわかりやすい方法なのだと思う。刑罰は、どのような侵犯行為に対しどの程度の罰則を与えるのが効果的か、という視点で設定されているのだろう。

社会の秩序を維持するというのが基本的な主旨なので、侵犯行為が明らかになり、例えば懲役刑を受けるようなことがあれば、「前科者」として差別的扱いを受けることもあり、そうした社会の眼も広義の罰則に含まれるだろう。しかし、侵犯行為者に更生の道を閉ざしてしまうことは、社会に不安要素を抱え続けるということにもなる。侵犯行為者に罰則を与えるだけでなく、その人を秩序の中に組み込む仕組みまで用意しないと社会秩序の維持という目的は達成されない。死刑というのは、その侵犯行為者に更生の可能性があるか否か、仮にあるとして、その人を社会が再び受け容れる余地があるか否か、というようなことを考慮したときに、そうした可能性を見出し難いという判断である。

人は誰でもその人なりの存在証明を求めていると思う。それが仕事であったり、趣味であったり、特定の人間関係であったり、というような他愛の無いことである限り何の問題も起らない。しかし、なかには他人のものを盗んだり、他人を傷つけたりすることでしか安心できない人というのもいる。常習犯と呼ばれるのはそういう人なのだろう。自分の思い描く世界が現実の社会と著しく乖離してしまっている人もいるだろう。一般の人々からみれば誇大妄想であったり大言壮語にしか思えなくとも、本人にとってはそれが「現実」なのである。時として、そうした誇大妄想が他人の財産を奪うことにもなる。詐欺行為のなかには、人を騙そうと意識したものも多いだろうが、誇大妄想の結果であるようなものも少なくないだろう。殺人犯についても、その犯罪の背後にあるものを慎重に分析しなければならないだろう。他人を殺すことでしか生きていくことのできない自我を抱えた人というのは、やはりいると思う。

正月からいきなり難しいメールを頂いてしまった。