「湯水のようにつかう」というのは、「金銭を惜しげもなくむやみに費やすことの形容」と広辞苑にある。日本語で「湯水」というのは豊富にあるということを前提にした言葉であることがわかる。
今まで住んでいた家の浴室の湯は、栓を目一杯開いてもちょろちょろとしか流れなかった。昨日から安宿に移り、温かい湯をザーッと浴びることができるものと思っていた。ところが、ここのシャワーも元気がない。
ところで、日本は今でも湯水は豊富なのだろうか? 子供の頃に住んでいた埼玉県の県南地域にあった家は、水道水がおいしかったと記憶している。それが、同じ地域内の商工業地区内にある集合住宅に引っ越してからは、カルキ臭くて水道水をそのまま飲む気にはなれなかった。引っ越した当初は、竣工間もない所為で水がまずいのかとも思っていた。その集合住宅には今でも両親が住んでいるが、水は相変わらずまずい。おそらく、おなじような状況は日本のそこここであるのだろう。浄水器やそのフィルターはどこでも当り前に売られているし、スーパーには大きな水の自動販売機が設置されているところも多い。水道水をそのまま飲んでも、勿論、無害なのだろうが、「まずい」と感じるということは、そこに含まれる何がしかの成分を身体が拒否しているということではないのだろうか。口にする水だけでなく、浴室用の浄水器というものもある。これはアトピーの原因物質のなかに水道水の残留塩素があるからだそうだ。水の量は豊富なのかもしれないが、生活に使える水というのは思っているほど豊富ではないのか、人々の水の質に対する要求水準が高すぎるのか。
日本の降水量は年間約1,700ミリで世界平均の880ミリを上回っているものの、人口あたりにすると約5,100立方メートルで世界平均の19,800立方メートルの四分の一程度だ(出典:水資源協会「日本の水 2005」)。自然に恵まれ、「水と平和はタダ」と思っていてはいけないのかもしれない。確かに、自然が豊か、の割にはカロリーベースの食料自給率が40%という低水準にあるのは解せない。天気に恵まれることが少なく、平均気温も日本より低いここ英国の食料自給率は70%を維持している。どちらも産業構成に占める農業の割合は同じ程度だろう。
ない、と思っていたものが、実はあった、ということで大騒ぎになることもあれば、ある、と思っていたものが、実はなかった、ということで慌ててしまうこともある。まずは自分自身の現状認識が適切であるかどうか確かめておいたほうがいいかもしれない。
今まで住んでいた家の浴室の湯は、栓を目一杯開いてもちょろちょろとしか流れなかった。昨日から安宿に移り、温かい湯をザーッと浴びることができるものと思っていた。ところが、ここのシャワーも元気がない。
ところで、日本は今でも湯水は豊富なのだろうか? 子供の頃に住んでいた埼玉県の県南地域にあった家は、水道水がおいしかったと記憶している。それが、同じ地域内の商工業地区内にある集合住宅に引っ越してからは、カルキ臭くて水道水をそのまま飲む気にはなれなかった。引っ越した当初は、竣工間もない所為で水がまずいのかとも思っていた。その集合住宅には今でも両親が住んでいるが、水は相変わらずまずい。おそらく、おなじような状況は日本のそこここであるのだろう。浄水器やそのフィルターはどこでも当り前に売られているし、スーパーには大きな水の自動販売機が設置されているところも多い。水道水をそのまま飲んでも、勿論、無害なのだろうが、「まずい」と感じるということは、そこに含まれる何がしかの成分を身体が拒否しているということではないのだろうか。口にする水だけでなく、浴室用の浄水器というものもある。これはアトピーの原因物質のなかに水道水の残留塩素があるからだそうだ。水の量は豊富なのかもしれないが、生活に使える水というのは思っているほど豊富ではないのか、人々の水の質に対する要求水準が高すぎるのか。
日本の降水量は年間約1,700ミリで世界平均の880ミリを上回っているものの、人口あたりにすると約5,100立方メートルで世界平均の19,800立方メートルの四分の一程度だ(出典:水資源協会「日本の水 2005」)。自然に恵まれ、「水と平和はタダ」と思っていてはいけないのかもしれない。確かに、自然が豊か、の割にはカロリーベースの食料自給率が40%という低水準にあるのは解せない。天気に恵まれることが少なく、平均気温も日本より低いここ英国の食料自給率は70%を維持している。どちらも産業構成に占める農業の割合は同じ程度だろう。
ない、と思っていたものが、実はあった、ということで大騒ぎになることもあれば、ある、と思っていたものが、実はなかった、ということで慌ててしまうこともある。まずは自分自身の現状認識が適切であるかどうか確かめておいたほうがいいかもしれない。