熊本熊的日常

日常生活についての雑記

活字で名刺

2009年01月30日 | Weblog
たまたま地下鉄の駅で配布している情報誌で、銀座で活字印刷を続けている印刷所が紹介されていた。自分の名刺を活字で作ろうと思い、さっそく訪ねて注文した。校正を経て、注文から3日目の今日、出来上がってきた。なかなかの出来映えである。

この印刷所はマンションに挟まれるようにして建つ木造2階屋だ。入口の引き戸をがらがらと開けるとカウンターになっている。活字の収められた棚が入口近くから奥まで続き、いかにも印刷所という風情。対応して頂いたのは、この会社の社長。好奇心のおもむくままにいろいろ尋ねてみると、時に資料を持ち出しながら、口調はざっくばらんながら丁寧に説明してくださった。この時の資料のひとつに「印刷に恋して」という本があった。イラストが豊富で楽しげな本だったので、さっそく帰宅後に本やタウンへ注文した。

今はもう活字を使った印刷をしているところは殆ど無いそうだ。ということは、活字を扱う職人も後継者がいないということになる。確かに、活字の鋳造にも、その活字を組んで印刷の原版を作るにも、それぞれに熟練技術者を必要とするが、デジタル化された工程においてはこれらが機械に取って代わられ、原稿から印刷物に至る時間は格段に短くなり、同時にコストも削減される。経済合理性という観点では、活字を残す理由は無いだろう。ちょうど音楽ソフトがレコードからCDへ、そしてネット配信へと姿を変えたのと同じことである。それでもレコードが限られた愛好者のために辛うじて残っているように、活字も細々とは残るのだろう。

生活の豊かさというのは、自己表現の手段がどれほど多様であるかということによって計られるような気がする。好むと好まざるとにかかわらず、社会を構成して生活する動物は、その成員の序列付けを行う。犬でも猿でも人間でも、自分が属する社会のなかでの位置づけを明確にしておかないと安心できないものである。人間が畜生と違うのは「社会」の成り立ちがより複雑で、同じ成員間の序列付けが属する社会によって異なるということである。例えば「釣りバカ日誌」の主人公ハマちゃんは勤務先の会社のなかでは平社員だが、釣り愛好家の仲間としては、社長のスーさんを指導する位置にある。社会が豊かになりひとりの人間が多くの組織や社会に重層的に関わるようになると、それだけ立ち位置というものも多元的になるということだ。当然、自分がどの立場にあるかによって、自己表現は自ずと変化する。クラーク・ジョセフ・ケントは新聞記者然とした風貌であるし、スーパーマンは浮世離れした風貌だ。こうした選択肢が、社会が豊かになるにつれて広がってくると思うのである。

名刺というのは、それを持っていること自体がひとつの表現であり、複数の種類を持ち使い分けるということも表現であり、その名刺のデザインも表現だ。そこに印刷されている肩書きにこだわるのも表現なら、文字のスタイルに凝るのも表現である。たかが名刺1枚にしても、それが語ることは使用される文脈によって無数の内容がある。尤も、その内容を読み取ることができるか否かというのは、個人の能力の問題である。

活字の世界が消滅し、もはや活字印刷の名刺を持つことができない、というような事態に至るとすれば、それは技術が発達したということではなく、その社会が衰退したということだと思う。