昨日が帰国後の最初の出勤日で、人事の手続きがもろもろあり、個人的な用件を済ませる時間がなかった。今日は役所に転入届を提出して住民票をつくり、晴れて形式上の身分が整った。その足で運転免許の住所変更を済ませて職場へ向かう途中、池袋の書店で注文しておいた本を受け取り、ついでにその近くの家電量販店で携帯電話を買った。いや、携帯電話は無料の機種を選んだので、「買った」のではなく「契約した」と言うべきだろう。
店に並ぶ携帯電話を見ていたら、店員が近寄ってきて「お探しの機種はありますか?」という。イメージとしては「らくらくホン」のようなものを考えていたので、「電話とメールさえ使えればいいんだけど」と答えると、それなら、ということで新規あるいは機種変更なら0円という機種を薦められた。なかなかカッコが良かったので即決した。いざ、購入手続きの段になって「機種変更ですか?」と聞かれたので「新規です」と答えた。「今まで持っているのとは別の番号ということですね?」というので「いえ、なにも持っていないんです」と答えた。すると、私の気のせいかもしれないが、その店員が少し緊張したように見えた。顔に「こりゃアブナイオヤジかもしれない」という少し不安の影のついた文字が浮かび上がってみえる。「今買ったら、いつから使えますか?」と尋ねると、最初「30分くらい」と言いかけて、「あ、いや、ご新規ですので審査がありますから45分程度をみていただければと思います」と言う。
ロンドンでも感じたことだが、今は携帯電話の番号がある種の身分証明のようになっているようだ。携帯電話を持っているのが当然で、それを持たないのは、何か特殊な事情があるに違いない、と思われてしまうような世の中になっているような気がする。ホームレスでも携帯電話を保有している人は少なくないらしい。それが社会との絆だと言って、大事にしている人もいる。
高校時代の現代国語の教科書に載っていた「最後の一片」というような題名の話をふと思い出した。舞台は第二次大戦中のポーランド。仕事帰りの男が、ポーランド人であるという理由でドイツ軍の兵士に身柄を拘束されてしまう。そして強制収容所に送られることになる。収容所へ向かう貨車のなかで、男はそこで知り合った老人からパンの切れ端をもらう。すっかり乾涸びて固くなっているが、老人が言うには「君はまだ若い。自分はどのみち先が無い。これまでいざとなったらこのパンを食べようと思いながら飢えに耐えてきた。君は生き延びることを考えなさい。」男は言われた通り、もらったパンを大切にポケットの中にとっておいて、「いざとなれば」と思いながら収容所での生活を生き抜いた。戦争が終わって解放され、何年かぶりに我が家へ戻る。家族も生き延びていて再会することができた。妻の顔を見た途端、安堵のあまりその場に倒れてしまう。その拍子に、男のポケットから一片の木切れが転がり出てきた。
このような極限状態でなくとも、人の命はそれを支えようとする意志が無ければ、生理的に問題がなくても絶えてしまう。現実がどうあれ、そこに自分と世の中とのつながりがあると信じる心が命を支えているという面もあると思う。しかし、私には携帯電話は単なる道具にしか見えない。電話番号やメルアド以前に生身の人間との人格的なつながりがなければ、上っ面だけの関係など空しく感じられる。やはり木切れではない、固くとも本物のパンが欲しいと思う。尤も、パンはやがて黴が生えて食べられなくなってしまうので、手間暇をかけてパンを作り続けなければならない。その手間暇をかけ続けることが生きるということだろう。
店に並ぶ携帯電話を見ていたら、店員が近寄ってきて「お探しの機種はありますか?」という。イメージとしては「らくらくホン」のようなものを考えていたので、「電話とメールさえ使えればいいんだけど」と答えると、それなら、ということで新規あるいは機種変更なら0円という機種を薦められた。なかなかカッコが良かったので即決した。いざ、購入手続きの段になって「機種変更ですか?」と聞かれたので「新規です」と答えた。「今まで持っているのとは別の番号ということですね?」というので「いえ、なにも持っていないんです」と答えた。すると、私の気のせいかもしれないが、その店員が少し緊張したように見えた。顔に「こりゃアブナイオヤジかもしれない」という少し不安の影のついた文字が浮かび上がってみえる。「今買ったら、いつから使えますか?」と尋ねると、最初「30分くらい」と言いかけて、「あ、いや、ご新規ですので審査がありますから45分程度をみていただければと思います」と言う。
ロンドンでも感じたことだが、今は携帯電話の番号がある種の身分証明のようになっているようだ。携帯電話を持っているのが当然で、それを持たないのは、何か特殊な事情があるに違いない、と思われてしまうような世の中になっているような気がする。ホームレスでも携帯電話を保有している人は少なくないらしい。それが社会との絆だと言って、大事にしている人もいる。
高校時代の現代国語の教科書に載っていた「最後の一片」というような題名の話をふと思い出した。舞台は第二次大戦中のポーランド。仕事帰りの男が、ポーランド人であるという理由でドイツ軍の兵士に身柄を拘束されてしまう。そして強制収容所に送られることになる。収容所へ向かう貨車のなかで、男はそこで知り合った老人からパンの切れ端をもらう。すっかり乾涸びて固くなっているが、老人が言うには「君はまだ若い。自分はどのみち先が無い。これまでいざとなったらこのパンを食べようと思いながら飢えに耐えてきた。君は生き延びることを考えなさい。」男は言われた通り、もらったパンを大切にポケットの中にとっておいて、「いざとなれば」と思いながら収容所での生活を生き抜いた。戦争が終わって解放され、何年かぶりに我が家へ戻る。家族も生き延びていて再会することができた。妻の顔を見た途端、安堵のあまりその場に倒れてしまう。その拍子に、男のポケットから一片の木切れが転がり出てきた。
このような極限状態でなくとも、人の命はそれを支えようとする意志が無ければ、生理的に問題がなくても絶えてしまう。現実がどうあれ、そこに自分と世の中とのつながりがあると信じる心が命を支えているという面もあると思う。しかし、私には携帯電話は単なる道具にしか見えない。電話番号やメルアド以前に生身の人間との人格的なつながりがなければ、上っ面だけの関係など空しく感じられる。やはり木切れではない、固くとも本物のパンが欲しいと思う。尤も、パンはやがて黴が生えて食べられなくなってしまうので、手間暇をかけてパンを作り続けなければならない。その手間暇をかけ続けることが生きるということだろう。