桜の咲く頃は、街に喪服姿が目立つ時期でもある。春分秋分の頃を「彼岸」と呼ぶが、この時期はあの世とこの世が交錯する時期だ。ちょうど国立博物館ではカルティエ展も開催中だが、ハイ・ジュエリーの世界も死の香りがする。
美しいという感覚は、自分が認識している自分を中心にして、そこから見上げる感覚ではないだろうか。「用の美」とか「自然の美しさ」というのは、等身大よりやや上目、絢爛豪華のものを美しいと感じるのは完全に顎が上がるくらいに見上げる感じ、とでも言うのだろうか。
カルティエが扱うようなハイ・ジュエリーは、権力や権威を象徴する美なので、所持する者にとっても作る者にとっても並ぶ物の無い絶対的な位置を占めることを目指したものだ。「絶対的」というのが鍵である。誰もが高価であることを認識している貴金属や宝石を用いて、技術の粋を集めて加工するということが必須の条件である。いくら稀少であっても、いくら光り輝いていても、知る人ぞ知る、というのでは意味がない。ダイヤモンドであったり、金であったり、誰もが見知っている高額素材をふんだんに使い、そこに人間業を超えるかのような細工を施すことで、はじめて権力を権威の象徴になるのである。
素材の入手から加工に至るまで、それぞれの段階で文字通り関係者が命がけで取り組む過程を経ることで、宝飾品は価値を増していく。それはあたかも人の命を吸い取っていくかのようだ。そうしてはじめて、権力や権威を象徴するものができるのである。
しかし、誰もが知っている素材に、一見して手が込んでいることがわかるような加工を施すということは、結局のところ、既存の価値の極限を追求したということに過ぎず、そこに新たな価値を創造したということにはならないのではないだろうか。しょせん、誰もがわかる、という程度のもので表現される権力や権威は薄っぺらなものでしかないことを示唆しているようも思える。「絶対的」などというのは、幻想でしかないのではなかろうか。それを追い求める絶対権力というのは、裸の王様のようなものだろう。
美しいという感覚は、自分が認識している自分を中心にして、そこから見上げる感覚ではないだろうか。「用の美」とか「自然の美しさ」というのは、等身大よりやや上目、絢爛豪華のものを美しいと感じるのは完全に顎が上がるくらいに見上げる感じ、とでも言うのだろうか。
カルティエが扱うようなハイ・ジュエリーは、権力や権威を象徴する美なので、所持する者にとっても作る者にとっても並ぶ物の無い絶対的な位置を占めることを目指したものだ。「絶対的」というのが鍵である。誰もが高価であることを認識している貴金属や宝石を用いて、技術の粋を集めて加工するということが必須の条件である。いくら稀少であっても、いくら光り輝いていても、知る人ぞ知る、というのでは意味がない。ダイヤモンドであったり、金であったり、誰もが見知っている高額素材をふんだんに使い、そこに人間業を超えるかのような細工を施すことで、はじめて権力を権威の象徴になるのである。
素材の入手から加工に至るまで、それぞれの段階で文字通り関係者が命がけで取り組む過程を経ることで、宝飾品は価値を増していく。それはあたかも人の命を吸い取っていくかのようだ。そうしてはじめて、権力や権威を象徴するものができるのである。
しかし、誰もが知っている素材に、一見して手が込んでいることがわかるような加工を施すということは、結局のところ、既存の価値の極限を追求したということに過ぎず、そこに新たな価値を創造したということにはならないのではないだろうか。しょせん、誰もがわかる、という程度のもので表現される権力や権威は薄っぺらなものでしかないことを示唆しているようも思える。「絶対的」などというのは、幻想でしかないのではなかろうか。それを追い求める絶対権力というのは、裸の王様のようなものだろう。