熊本熊的日常

日常生活についての雑記

「子どもたちのいない世界」

2009年04月17日 | Weblog
フィリップ・クローデルが愛娘のために書いた話を集めたもの、ということになっている。自分も毎週末に子供にメールを書いているが、これほど愉快で、読みようによっていくらでも深く掘り下げることのできる内容のものは書けない。彼は私の好きな作家のひとりだが、その奥行きのある作品にはいつも感心させられる。

本書には表題作を含め20の短編が収められている。どの話も独特の世界を描いているが、根底に流れている作者の思いは共通しているように思われる。それは、あるがままの自分を愛し、あるがままの他人を愛そうじゃないか、そしたら世界はもっと暮らしやすい場所になる、ということではないだろうか。人に欲望がある以上、あるがままを受け容れるというのは容易なことではない。

人は他人との関係なかを生きているので、好むと好まざるとにかかわらず、他人の眼を意識する。人はそれぞれに価値観という物差を持ち、不定形の世界に自分なりの座標軸を与えて、自分なりの秩序を構築して生活しているはずである。しかし、その世界観はあくまでも「自分なり」のものでしかないので、どれほど精緻な理屈をつけたところで不確定性を拭い去ることはできない。そこに不安が生じ、他人の眼が気になるようになるのだと思う。

この他人の眼が気になる程度というのは、結局は自分が持つ物差しの品揃えと信頼度の充実度合いに拠るということだろう。人は経験を超えて発想することはできない。未知のことに挑むのは勇気が要るが、新しい経験を積み続けなければ発想は豊かにはならないし、物差しの信頼度も品揃えも充実しない。「あるがまま」を受け容れるには、社会に暮らすひとりひとりが「あるがまま」を受け容れるに足るだけの多種多様な物差を持たなければならないということだろう。それが極めて困難なことであるからこそ、世の中はいつまでも落ちつかないのである。

「あるがまま」というのは、その平易な響きから、手を伸ばせば容易に届くような近しさを感じさせるが、実は久遠の理想であるように思われる。