生きることは、そもそも苦痛なのか快楽なのか、などということを考えたところで始まらない。少なくとも、我々は生まれるか否かという選択をすることができない。生は唐突に授けられ、そこにどのような生活が待ち受けていようとも、その生を全うしなければならない。
おそらく、他の生物と同じように人間も種として生存し続けるという使命を背負っているのだろう。ただ、他の生物よりも少しばかり知恵が発達しているおかげで、個人としても種としても、自然の摂理を超えて極端な過剰や不足を抱えるようになったということではあるまいか。
生きるために必要なのは、何よりも生きようとする意志である。それは多分に習慣に依存する側面もあるだろうが、未来に対する漠然とした希望に支えられているような気がする。それは種としても個としても必要なことだろう。何の根拠もないのに、今日の延長上に明日があると考えるのは精神が健康である証拠であるかもしれないし、そういう幻想を抱く不健康さがなければ生きていくことができないのかもしれない。そもそも健康という概念も生きることを前提にしたものだ。たまたま生まれたところが、食うや食わずの悲惨な状況下であろうと、何不自由なく生活できるところであろうと、生まれてしまったからには状況の運不運を喜んだり呪ったりしている余裕はない。少なくとも、誰が考えたのか知らないが明日というのを明るい日と書く文化に暮らすことは、それだけでも幸せなことだと思う。
前置きが長くなってしまったが、楽しい作品だった。主人公の画家が故郷で出会った子供時代の友人を偶然に庭師として雇ったところから、その庭師との対話を通じて、それまで気付かなかった幸福の感覚を少しずつ獲得していく。庭師が象徴するのは、人間を含めた自然のありかたであるように思う。庭師の台詞にそうした思想が具体的に現れているわけではなく、むしろ凡庸すぎるほどに凡庸なのだが、その立ち居振る舞いや家族を素朴に大切にする姿勢が、生きることの自然のようなものを表現しているように思えるのである。
おそらく、他の生物と同じように人間も種として生存し続けるという使命を背負っているのだろう。ただ、他の生物よりも少しばかり知恵が発達しているおかげで、個人としても種としても、自然の摂理を超えて極端な過剰や不足を抱えるようになったということではあるまいか。
生きるために必要なのは、何よりも生きようとする意志である。それは多分に習慣に依存する側面もあるだろうが、未来に対する漠然とした希望に支えられているような気がする。それは種としても個としても必要なことだろう。何の根拠もないのに、今日の延長上に明日があると考えるのは精神が健康である証拠であるかもしれないし、そういう幻想を抱く不健康さがなければ生きていくことができないのかもしれない。そもそも健康という概念も生きることを前提にしたものだ。たまたま生まれたところが、食うや食わずの悲惨な状況下であろうと、何不自由なく生活できるところであろうと、生まれてしまったからには状況の運不運を喜んだり呪ったりしている余裕はない。少なくとも、誰が考えたのか知らないが明日というのを明るい日と書く文化に暮らすことは、それだけでも幸せなことだと思う。
前置きが長くなってしまったが、楽しい作品だった。主人公の画家が故郷で出会った子供時代の友人を偶然に庭師として雇ったところから、その庭師との対話を通じて、それまで気付かなかった幸福の感覚を少しずつ獲得していく。庭師が象徴するのは、人間を含めた自然のありかたであるように思う。庭師の台詞にそうした思想が具体的に現れているわけではなく、むしろ凡庸すぎるほどに凡庸なのだが、その立ち居振る舞いや家族を素朴に大切にする姿勢が、生きることの自然のようなものを表現しているように思えるのである。