熊本熊的日常

日常生活についての雑記

「ニセ札」

2009年04月28日 | Weblog
作りは粗いが、面白い作品だった。正義とか権威という人間社会の根幹をなす価値観がいかに脆弱なものであるかということを改めて認識させられる。

紙幣は権威の象徴だ。物理的には単なる紙片なのに、それが国家という権威に裏付けられることによって、一定の経済的価値を持つものとして国内はもとより世界中で流通する。それが当然だと思って日々生活しているが、これは驚異に値すると思う。

作品の舞台は昭和25年夏のとある山村。もともと経済的に豊かとは言い難い状況であった上に戦争でさらに疲弊した日本の日常といってもいいかもしれない。それでも人には生活があり、多くの人々が生きることに必死だった。生活は苦しいが、その苦しさとは貧窮と同義だ。何も悪い事をして貧乏に喘いでいるわけではない。ただ、自分が置かれた状況がそういうことになっていたというだけのことなのである。

貧しさという問題を打開するには、もちろん収入の道を得るというのがまっとうな結論だろうが、収入を得る手段は働くことだけではない。市中に流通しているのと全く同じ貨幣を自ら作ってしまえばいい。法律論は別にして、「全く同じ」ものを作ることができるのなら、それは合理的な問題解決の方法だ。

そこで次の技術的問題が生じる。「全く同じ」ものを作るのは可能なのかということだ。紙幣には多重に偽造対策が施されているので、おそらくそうした対策を全て克服するのは費用対効果という視点も含めて現実には困難なのだろう。

しかし、仮に技術的問題が克服できたとして、実際の紙幣と「全く同じ」ものを作ることができたとする。それは法を犯しているという点で「悪い」ことなのだが、法律違反という事務的な点以外で、何がどう「悪い」のだろうか?

善悪とは誰が何を基準に決めることなのだろうか? 作品の最後の裁判の場面で、被告である小学校の先生が、何故ニセ札作りに加担したのかを陳述する場面がある。そこには、法を犯しはしたものの、自分の信念に従って行動したことへの自負と誇りがあり、観ていて溜飲が下がる思いがした。現実が抱える問題に目を背け、目の前の薄っぺらな法解釈だけに汲々とする検察官や裁判官のほうが卑屈で矮小に見えるのだから不思議なものである。