熊本熊的日常

日常生活についての雑記

似て非なる

2009年04月12日 | Weblog
映画を観るのは好きなのだが、住処にテレビはなく、レンタルDVDも近所に店がないので2年近く観ていない。

自習のつもりで茶道のDVDを観た。当然のことなのだが、DVDはビデオと違って、観たいところを即座に呼び出して観ることができる。これはすごいことだと今更のように感心する。

例えば、映画を通して観る場合、DVDであってもビデオであっても違いはない。ところが、ある部分を繰り返して観たり、特定のところだけを観たり、といった細かい作業を加えようとすると、ビデオでは巻き戻しに時間がかかるし、下手をすると画像が損傷してしまうこともあった。DVDならそのような余計な手間や心配はいらない。夢のような話だ。

以前、映像翻訳の学校に通っていた頃、宿題は3分程度の映像に字幕をつけるというものが殆どだった。わずか3分の映像で交わされている言葉を拾い、その前後背景を考えながら字幕を作ることの難しさといったら、経験の無い人には想像することすらできないだろう。テープを何度も巻き戻し、原語を拾っていくのも容易でないが、それを1秒4文字、1行13文字という枠に日本語で再構成するのは職人芸の域と言っても過言ではない。人によっては早口の人もいれば、そうでない人もいる。その台詞を一律1秒4文字という日本語で表現するのである。映像翻訳というのは、つまり「翻訳」ではないのである。かといって、創作というわけでもない。あくまでも主役は映像に登場している人々であり、映像翻訳者はその裏方でしかない。裏方が勝手に創作してしまっては、原画の価値を毀損することになる。その中途半端加減がなんとなく魅力的だったが、その中途半端加減故に報酬が安く、それだけで生活するのは余程の大物にでもならない限り無理であることを認識したので、その道には進まなかった。

今は当然のようにメディアのデジタル化が進み、映像翻訳に限らずさまざまのことが以前よりも容易にできるようになっているはずである。それでも、創作という分野に画期的なものが現れないのは、人間の創造性の深さを象徴しているのか、浅薄さを示唆しているのか。