熊本熊的日常

日常生活についての雑記

藍より青く

2009年04月25日 | Weblog
柳家三三の独演会に出かけてきた。初めて聴く噺家なのだが、上手いので驚いた。最初の噺の出だしあたりに、師匠の小三治を彷彿とさせる雰囲気があったが、ひとたび噺が始まると、そこに独自の世界が広がる。今日の演目は「口入れ屋」と「髪結新三」の二話。特に「髪結」のなかの登場人物が啖呵を切る場面の描写が、気持ち良かった。ただ、細かいことを言い出せば、大家の啖呵は、あれで本当によかったのかと疑問を感じないわけではないし、女性の表現がやや単調に感じられたりもしたのだが、全体としては要所がしっかりと締まっていて、場面展開に破綻が無く、見事だったと思う。

今の時代に啖呵を切る表現というのは、難しいだろう。友人知人がよく愚痴るのだが、最近の若い人は怒られるという経験があまりない人が多いようで、仕事のことで少しお灸をすえると、すぐに意気消沈してしまったり、ひどい人になると鬱病の診断書を持ち出して勤務に来なくなってしまうのだそうだ。おそらく、噺家の世界でも、雷親爺のような師匠はあまりおられないのだろうし、ましてや、家庭で両親などからこっぴどく怒られるなどということを経験している人は少ないのだろう。人が感情を露にして言葉を投げつける場面というものに遭遇する機会に恵まれることはあまりないのではなかろうか。そうなると、実体験として啖呵を切ったり切られたりということがわからないので、映画とか芝居で登場する表現を参考にせざるをえなくなってしまう。「門前の小僧、習わぬ経を読む」とも言うが、自分で経験していないことを表現するというのはかなり難易度が高いことのように思われる。

同じ理屈で、男性が女性を、女性が男性を表現するのも、ある程度の経験の蓄積がものを言うことになるだろう。色恋事に限らず、異性を徹底的に意識する経験というのはそうあるものではない。人には生活があり、生活の糧を得るために一日の過半を費やさなければならないのが一般的だろう。自ずと色恋事だのに割くことのできる時間というのは限られる。断っておくが、色恋事というのは単に好いた惚れたという程度のことではない。ある意味で、人生の全てを投げ打つ覚悟で、ひとりの人間と向かい合うことを指している。そこまでしないと、人は他人を活写できるほどに人間というものを理解できないのではないだろうか。「よく学び、よく遊べ」というが、学ぶことも遊ぶことも真剣でないと何も身に付かないような気がする。

落語は何の小道具もなく、話だけで世界を構築する芸である。多くの人に見えるような世界を創りだすには、人並み外れた人生経験とか、同じ経験を人並み以上に膨らまして自分のものにできるだけの感性とか教養が要求されると思う。そうした噺家の芸に触れることで、観客である自分も何事かを追体験する。噺家の才能や芸の技巧も大事だが、客である自分の感性やリテラシーも問われることになる。噺を聴き終わって、自分の中にさまざまな思いが去来する。その余韻が落語を聴くということの醍醐味であるように思う。