熊本熊的日常

日常生活についての雑記

40分待ってでも

2009年04月15日 | Weblog
阿修羅展を観に行ったら会場入口に「40分待ち」の看板が出ていた。そのまま列に並び、40分程度待って、展示を観てきた。

平日の昼間にこれほどの行列ができる展示はそれほどあるものではない。おそらく、来場している人の多くは仏像だの美術だのの愛好者ではないのだろう。会場に入って、最初のコーナーこそごった返しているが、不思議と奥へ進むほどに展示物を観るための困難の度合いは逓減する。だから自分が観たいものならば、多少の行列は気にせずに並ぶことである。

「阿修羅展」という名が示す通り、本展の目玉は阿修羅をはじめとする八部衆と十大弟子の像であり、その展示に続く四天王像と薬王・薬上菩薩像だろう。阿修羅立像を拝むだけでも40分並ぶ価値はあるだろうが、ここは奈良時代に作られた八部衆・十大弟子と鎌倉時代に作られた四天王や薬王・薬上菩薩とを比較してみるのも面白い。製法が異なる上に大きさの違いもあるので表現に差が出るのは当然なのだが、時代が仏像に求めたものが奈良と鎌倉とでは異なるのではないかと思わずにはいられなかった。

奈良時代の仏教は、宗教である以前に、当時の先進地域である中国大陸から渡来した最新の知識であり情報であったと思う。従って、その表現に関しても、人間の内面という生々しいものよりは、むしろ、人間とはかくあるべし的な普遍性を指向したものであるように思うのである。つまり、生身の人間と仏像との間に感情という面での大きな断絶があるのではないかと感じられるのである。

対する鎌倉時代の表現は、見た目こそ異形風だが、その異形こそが人間の内面に近いもののように思われる。勿論、この時代にあっても中国大陸は日本からみれば先進地域であっただろう。しかし奈良時代に比べれば、仏教ははるかに身近になり、人々のなかで日本の風土に合わせて咀嚼され定着していたのではないかと思うのだ。そうした時代背景を勝手に想像すれば、仏を作る身にとっても、そこに込めるであろう思いは奈良時代に比べればはるかに自分自身の感情に近いのではないか。さらに言えば、人間の魔性がより明確に自覚されるようになったのではないかとすら言えると思うのである。

さて、百聞は一見に如かず、というが、奈良時代のものであろうが、鎌倉時代のものであろうが、実際の仏像はどれも一見の価値はあると思う。殊に阿修羅像の完成度の高さは、他を圧倒しているように感じられる。写真で見ると三面六臂という姿と、腕が不自然に細長くて昆虫の足のような印象を受ける。しかし、実物の存在感はそんな些細な違和感を軽く吹き飛ばしてしまう。阿修羅を含め、奈良時代の仏像は脱活乾漆造で製作されており、完成当初は華やかな色彩をまとっていたはずである。今は良い感じに枯れているが、そうした年月や古の姿を想像するのも楽しい。