住処の窓から桜の木が見える。一週間前は満開だったが、今は葉桜になっている。よく言われることだが、花はやはり散るからこそ美しい。花はいつか散るもの、という固定観念があり、その期待に沿うように物事が変化することに安堵を覚え、その安心感が「美しい」という感覚として認識されるのかもしれない。花が散るという相の変化に命の営みを感じ、その静かな躍動に自分自身の生命を感じて「美しい」と思うのかもしれない。あるいは単に花びらが舞うという表面的な風景を「美しい」と感じるのかもしれない。おそらく、「美しい」という感覚やその背景には、各人それぞれに抱えた歴史や文化があるのだろうし、自覚している以上に複雑なものがあるだろう。
そうした本来は多様な背景があるはずの感情とか感覚を「美しい」という言葉で表現してしまうと、それでわかったような気になってしまうものだ。「美しい」に限らず、言葉というのは物事を歪めてしまう危険性を絶えず孕んでいる。しかし、言葉で表現しないことには意志というものは他人に伝わらない。そこに意思疎通の難しさがある。
花を見て美しいと思う。同じ花を見て他人も「美しい」と言う。果たしてその言葉だけで、我々は同じ感覚を共有していると言えるだろうか? 同じ何かを感じたいと思った時、言葉以外に何が必要だろうか?
そうした本来は多様な背景があるはずの感情とか感覚を「美しい」という言葉で表現してしまうと、それでわかったような気になってしまうものだ。「美しい」に限らず、言葉というのは物事を歪めてしまう危険性を絶えず孕んでいる。しかし、言葉で表現しないことには意志というものは他人に伝わらない。そこに意思疎通の難しさがある。
花を見て美しいと思う。同じ花を見て他人も「美しい」と言う。果たしてその言葉だけで、我々は同じ感覚を共有していると言えるだろうか? 同じ何かを感じたいと思った時、言葉以外に何が必要だろうか?