熊本熊的日常

日常生活についての雑記

「ダウト あるカトリック学校で」(原題:Doubt)

2009年04月06日 | Weblog
何事かを疑うということは、その対象の対極に真実が存在することを前提にしている。真実とは何か。真実なるものが果たして存在するのだろうか。

この作品の舞台は1964年のニューヨーク、ブロンクス地区にあるカトリック学校。厳格な校長と人望の厚い神父がいて、その間に微妙な感情の摩擦がある。校長にしてみれば、生徒の受けが良く、時に校長以上の存在感を示す神父の存在は快いものではない。それは単に校長の感情面での問題かもしれないが、自分が作り上げた秩序に対する脅威にも映る。校長という役職は校長自身の主要な構成部分でもあり、校内の秩序は彼女自身の世界観の秩序でもある。学校の規律に対する脅威は彼女自身に対する脅威そのものなのである。

やがて些細な出来事をきっかけに校長と神父の対立は表面化する。しかし、それは極めて現実的な方法で処理されることになる。

規則違反であるとか素行不良といった問題は、合理的根拠の下に摘発されるわけでは必ずしも無い。規則は一旦施行されると、その合理性や正当性が再考されることは少なくなる。規則はそれが規則だからという理由だけで守ることが当然視されるようになる。権威というものも、確立当初は権威たる合理性や必然性が存在していても、一度確立されてしまえば、それが与件であるかのように扱われるものである。人はえてして木を見て森を見ない。森を見ない、という以前に森の存在すら意識しないことが案外多いのではないだろうか。

その思考の空白に、権力や権威が暴走する隙が生まれるのである。合理性無き権力は、それを握る者の自我でしかない。浮遊している権力間の抗争が政治と呼ばれるのである。政治は政治家だけのものではない。我々の家庭や職場、個人的な関係のなかにも無数の政治がある。

1960年代であるとか、ニューヨークとか、カトリックという特定の条件は、この作品にとって重要な要素ではない。単なるメタファーだ。誰にでもある心の陰翳を殊更大きく見せたのがこの作品だと思う。クライマックスもなく、取り立てて事件と呼べるほどのこともない。淡々と、なんとなく不安を醸し出すような、あたりまえの陰翳がそこにある。ただ、そこに自分自身の心の曇りとか、真実という幻想を見出すかどうかは、見る人次第である。