久しぶりに友人と昼食を共にして午後の時間が空いたので、国立西洋美術館で開催中のレンブラント展を観てきた。
今回の展覧会では版画を中心にした展示になっている。説明するまでもなく、版画といえば、同じ図柄のものが何枚も作られるのだが、版が同じでもインクの乗りは刷り毎に違いがあり、紙の種類によっても表現は違ったものになる。レンブラントの場合は銅版画だが、銅といえども刷りを重ねれば少しずつ磨耗する。版画といっても、厳密には全く同じものは2つとないのである。また、一旦完成した版に修正を加えることもある。勿論、展覧会で刷りの比較をする場合は、インクの乗りだとか磨耗といった自然な変化のものを並べるのではなく、紙が違うとか、版に修正を入れたというようなものを展示する。
昨年11月に蛭谷和紙の職人の話を聴く会に参加する際、予習としてざっくりネットなどで調べたことのなかに、レンブラントが版画に和紙を好んで用いていたということがあった。説明では紙の色とかインクの滲み具合というようなものがレンブラントの表現意図にしっくりときたということらしいのだが、実物を見てみないことには、そうした説明もいまひとつ理解できないでいた。
それが、今回の展示では紙の違いが何をもたらすのか、雄弁に表現されていた。モノクロの版画はモノクロではない。黒は黒ではなく、白は白でないのである。単色のインクであっても、濃淡によって表現される色は違ったものになり、それによって奥行きを表現することもできれば、画面の人物に表情を与えることもできる。さらに印刷する紙によっても色の深さは違ったものになる。それは滲み具合の違いにも拠るのだろうし、紙の色や質感にも拠るのだろう。単純に黒のインクと白の紙との組み合わせと考えれば、そこに表現に際しての大きな制約と感じられるだろうが、黒と言っても様々に濃淡や質感を変化させることができ、紙の白も一様ではなく、インクの吸収も紙質によって様々なので、制約どころか無限の広がりがある。闇には奥行きがあり、空白には空気が満ちている。 “chiaroscuro”はイタリア語の“chiaro”と“scuro”に由来するのだそうだが、やはり単なる陰影ということではなく、もっと深い意味があるようだ。
レンブラントが生きた17世紀における絵画や版画は、現代におけるそれらとは違った存在意義を帯びていたはずだ。写真というものがなく印刷というものがそれほど普及していなかった時代には、今ほどに科学技術と美術とが分離していなかったはずだ。絵画や版画には、今とは比較にならないほど、写実性に対する要請が強かっただろう。レンブラントが和紙を愛用したのは、その中間色やインクの滲みに平面における奥行きの表現の可能性を見出したということではないだろうか。そこに平面を超えた何かを表現する可能性を見たということだ。
一方、レンブラントが和紙に版画を刷っていた頃の日本では、狩野、雲谷、長谷川、土佐といった諸派が正統派ともいえる日本画を描いている時代で、俵屋宗達は既に没していた可能性が高いが、後に「琳派」と称される新たなスタイルの胎動が始まった時期でもある。勿論、当時の日本画はエスタブリッシュメントであろうと琳派であろうと基本的には和紙に描かれており、和紙のバリエーションは様々にあっただろうが、和紙以外の選択肢といえば絹くらいのものだろう。
今のように通信や交通の手段が発達していなかった時期とはいいながら、和紙という同じ素材に対する向かい合い方がユーラシア大陸を隔ててかなり違ったものであったというのは面白い。同じものが置かれる文脈によって違ったものになるというのは、現代の生活のなかにもありうることだ。違ったものになることによって、悲喜劇が生まれることもあるのだが、思いも寄らぬ価値を生み出すことだってある。物事にはそれが生まれた必然性というものがあり、その必然のなかに置かれることで所期の目的を達するということは当然のことながら、その必然を取っ払って虚心に向かい合うことで何事かを創造するという可能性もある。「虚心」というのが容易に到達する心境ではないのだが、自分の習慣を見直してみるという作業は常に心がけてみる価値はあるだろう。それで自分のなかの白黒が逆転したら、人生は思わぬ方向へ転がり出すのかもしれない。
今回の展覧会では版画を中心にした展示になっている。説明するまでもなく、版画といえば、同じ図柄のものが何枚も作られるのだが、版が同じでもインクの乗りは刷り毎に違いがあり、紙の種類によっても表現は違ったものになる。レンブラントの場合は銅版画だが、銅といえども刷りを重ねれば少しずつ磨耗する。版画といっても、厳密には全く同じものは2つとないのである。また、一旦完成した版に修正を加えることもある。勿論、展覧会で刷りの比較をする場合は、インクの乗りだとか磨耗といった自然な変化のものを並べるのではなく、紙が違うとか、版に修正を入れたというようなものを展示する。
昨年11月に蛭谷和紙の職人の話を聴く会に参加する際、予習としてざっくりネットなどで調べたことのなかに、レンブラントが版画に和紙を好んで用いていたということがあった。説明では紙の色とかインクの滲み具合というようなものがレンブラントの表現意図にしっくりときたということらしいのだが、実物を見てみないことには、そうした説明もいまひとつ理解できないでいた。
それが、今回の展示では紙の違いが何をもたらすのか、雄弁に表現されていた。モノクロの版画はモノクロではない。黒は黒ではなく、白は白でないのである。単色のインクであっても、濃淡によって表現される色は違ったものになり、それによって奥行きを表現することもできれば、画面の人物に表情を与えることもできる。さらに印刷する紙によっても色の深さは違ったものになる。それは滲み具合の違いにも拠るのだろうし、紙の色や質感にも拠るのだろう。単純に黒のインクと白の紙との組み合わせと考えれば、そこに表現に際しての大きな制約と感じられるだろうが、黒と言っても様々に濃淡や質感を変化させることができ、紙の白も一様ではなく、インクの吸収も紙質によって様々なので、制約どころか無限の広がりがある。闇には奥行きがあり、空白には空気が満ちている。 “chiaroscuro”はイタリア語の“chiaro”と“scuro”に由来するのだそうだが、やはり単なる陰影ということではなく、もっと深い意味があるようだ。
レンブラントが生きた17世紀における絵画や版画は、現代におけるそれらとは違った存在意義を帯びていたはずだ。写真というものがなく印刷というものがそれほど普及していなかった時代には、今ほどに科学技術と美術とが分離していなかったはずだ。絵画や版画には、今とは比較にならないほど、写実性に対する要請が強かっただろう。レンブラントが和紙を愛用したのは、その中間色やインクの滲みに平面における奥行きの表現の可能性を見出したということではないだろうか。そこに平面を超えた何かを表現する可能性を見たということだ。
一方、レンブラントが和紙に版画を刷っていた頃の日本では、狩野、雲谷、長谷川、土佐といった諸派が正統派ともいえる日本画を描いている時代で、俵屋宗達は既に没していた可能性が高いが、後に「琳派」と称される新たなスタイルの胎動が始まった時期でもある。勿論、当時の日本画はエスタブリッシュメントであろうと琳派であろうと基本的には和紙に描かれており、和紙のバリエーションは様々にあっただろうが、和紙以外の選択肢といえば絹くらいのものだろう。
今のように通信や交通の手段が発達していなかった時期とはいいながら、和紙という同じ素材に対する向かい合い方がユーラシア大陸を隔ててかなり違ったものであったというのは面白い。同じものが置かれる文脈によって違ったものになるというのは、現代の生活のなかにもありうることだ。違ったものになることによって、悲喜劇が生まれることもあるのだが、思いも寄らぬ価値を生み出すことだってある。物事にはそれが生まれた必然性というものがあり、その必然のなかに置かれることで所期の目的を達するということは当然のことながら、その必然を取っ払って虚心に向かい合うことで何事かを創造するという可能性もある。「虚心」というのが容易に到達する心境ではないのだが、自分の習慣を見直してみるという作業は常に心がけてみる価値はあるだろう。それで自分のなかの白黒が逆転したら、人生は思わぬ方向へ転がり出すのかもしれない。