熊本熊的日常

日常生活についての雑記

プーさんの夢

2011年04月19日 | Weblog
蜂に襲われる夢で目が覚めた。夢なのではっきりとは憶えていないのだが、なんとなく背景が中間色の黄色いものに包まれているような感じで、そのなかに野山のような風情の山道が延びていて、少し先に蜂の巣があるらしく、かすかな羽音と蜂蜜の香りがしていた。その香りが嬉しくて近づくと蜂に囲まれ、でも、蜂蜜というものの生成されているところが見たい気持ちも抑えかね、蜂には難儀をしながら嬉しいような困ったような複雑な気分だった。

近頃、蜂蜜をよく口にする。ヨーグルトに混ぜてみたり、パンに塗ってみたり、オーソドックスな使い方しかしていないが、何種類かを手元に用意して味や香りの違いを楽しんでいる。蜂蜜に凝るつもりはないのだが、普段利用している生協のカタログに載っていたり、街で気が向いたときなどに買い求めている。今、在庫しているのはオーストラリア産の菜の花の蜂蜜、ニュージーランドのクローバーを使ったというイギリス産、ラベンダーを使ったフランス産、コーヒーの花というたいへん開花期間の短いものを使ったブラジル産のものだ。ものによって、液状のもの、購入時は液状だったのが固まってしまったもの、白濁したが液状のもの、というような違いがあるのはどういう理由なのだろうか。

花の蜜からできているのだから花の香りがするのは当然だが、その強弱はやはりものによりけりだ。去年だったか一昨年だったか、小三治が独演会のマクラのなかで蜂蜜について語っていることがあった。みかんだかオレンジだか、柑橘系の蜂蜜が一番好きだと語っていたような気がする。確かに、花によって、産地によって、製造業者によって、様々に個性はあるだろうが、どれが好きとか嫌いとか言うほどの大きな違いが果たしてあるのかどうか、疑問が無いわけでもない。好きとかそうでもないとか気になるのは、その人の個性なのだろう。

コーヒーもそうなのだが、豆の種類、焙煎、抽出方法、焙煎や抽出の技量といったものによって多種多様な味が存在する。しかし、その差異の大小をどうみるかは、その人の意識の問題だ。大きなカップで街のチェーン店のコーヒーを飲んでいる人を見ると、よくもあんなものをこんなに大量に口にすることができるものだと感心してしまうのだが、その人にとってはあれが「旨い」と思うのだろう。その人は、おそらく、私が普段自分で淹れて飲んでいるコーヒーや、私のお気に入りのカフェのものを飲んでも、美味しいとは思わないかもしれないし、それ以前に味については特段の意識を払うこともないのかもしれない。

味覚というのは、口にしたものが自分にとって毒なのかそうでないのかを識別する自己防衛のための感覚なのだろう。その毒か否かというところ以上の違いは、その人の勝手というか、我儘というか、要するにどうでもよいことなのだ。それを旨いの不味いのと言い出すのは、結局その人の自己表現の一環、あるいは感性の問題ということだろう。蜂蜜の味や香りは確かにものによって違う。その違いは気にしてもしなくてもどうでもよいようなものだ。それでも自分は、その違いに気付く人間でありたいと思う。今度、柑橘系の蜂蜜を味わってみよう。