熊本熊的日常

日常生活についての雑記

どこまでいけるかな

2011年04月07日 | Weblog
飽きもせず徒歩1時間圏の発見に励んでいる。今日は出勤のときに少し早めに住処を出て、職場に向かって1時間歩くことにした。それで職場に着けばよし、着かなければ最寄の駅から鉄道を利用するというつもりで出かけた。

前回は白山通りをお堀端まで進んだので、今日は途中の交差点で不忍通りへ左折して本郷通りに出て、そこを南下するというルートにした。以前にも書いたと思うが、白山通りと不忍通りと六義園に囲まれた地域は、その昔「駕籠町」と呼ばれていた。江戸時代に将軍専属の御駕籠係が居住していた場所である。御駕籠係は51名で、その家族を含めてもたいした数にはならないだろうが、50世帯が暮らすにはかなり余裕のある広さだ。尤も、近くの六義園は柳沢吉保が大名庭園として造営したもので、要するに家の庭のようなものであることを考えれば、江戸の頃の住まいの広さに対する考え方は現在とは全く違ったものだったのだろう。

不忍通りに面して駒込警察があり、その隣に東洋文庫がある。私は東洋文庫というのは、そういう名前の出版社だと思っていたので、本当に東洋文庫、つまり図書館のような施設なのだということを今日初めて知って驚いた。調べてみると、ここは2009年3月まで国立国会図書館の分館という役割も担っていたのだそうだ。「図書館のような施設」ではなく、図書館なのである。現在、建て替え工事中で今年の秋にリニューアルオープンとなる予定だ。

不忍通りから本郷通りに入ると沿道に寺が並んでいる。そのなかでひときわ大きいのが吉祥時だ。もともと太田道灌の頃に現在の和田倉門のあたりに造られた吉祥庵が起源だそうだが、家康の時代に水道橋際に移転、それが明暦の大火(1657年)で焼失して現在の場所に移転した。明暦の大火はご存知「八百屋お七」の火事として、吉祥時はその舞台として記憶されることもあるが、お七が実際に大火で避難したのは円乗寺で、1682年のことらしい。その円乗寺で出会った寺の小姓の山田佐兵衛に惚れてしまい、佐兵衛に会いたい一心で放火に及んだというのが文京区のホームページに記載されている内容だ。昔のことなので、その寺については他の説もあるようだし、話そのものも後年の芝居に影響されているところもあるだろう。芝居のほうは井原西鶴の「好色五人女」のなかに取り上げられたことを機にいろいろに演じられている。落語でも私が持っている「枝雀十八番」に収められている「くしゃみ講釈」のなかで使われている。ここでは舞台となっているのは吉祥寺であり、小姓の名は吉三(生田吉三)とされている。落語の舞台となっている場所を見物に京都や大阪まで出かけてしまう身としては、この吉祥寺にも立ち寄りたくなってしまったが、こんな調子で寄り道を繰り返すことになっては、いつまでたっても出勤できないという事態に陥ってしまうことを恐れ、今日のところは我慢して通り過ぎた。

さらに寺の並ぶ通りを進むと、門前に大きな布袋様がお立ちになっている寺が現れた。満開の桜の木に囲まれ、布袋様のお姿とも相俟って華やいだ雰囲気になっている。浄心寺という文字が目に入ったが、どういう謂れのある寺なのだろうかと思う。さらに進むと寺だけではなく、教会も現れる。日本キリスト教団西片町教会で、名前だけは何度か耳にしたことがあったが、教会然とした建物ではないので、一見したところそれとはわからない。以前に勤めていたところの近くに、霊南坂教会というのがあったが、それも街のなかに埋没しているかのような雰囲気だった。

宗教関連施設が途切れると、左手に東京大学が見えてくる。普段は縁のないところなので、気にも留めていなかったが、久しぶりに眺めてみると敷地内に新しい建物が増えているように見える。国立大学が昨今の民営化の流れのなかで国立大学法人となり、国からの予算配分にも軽重がつくようになったので、東大のようなところは重点校として厚めの予算を獲得したということなのかもしれない。駒場のほうは、民藝館があるので頻繁に足を運ぶが、やはり綺麗な建物が増えた印象がある。箱物の整備に相応しい中身の工夫も当然行われているだろうが、少子化のなかで東大といえども真剣に生き残りを模索しなければならない時代になっているのではないか。どの業界もしんどい時代になっている。

赤門を過ぎたあたりで、住処を出てちょうど1時間が経過した。たまたま目に入ったボン・アートというカフェに入り、あんみつをいただいて、本郷三丁目から地下鉄で東京に出て、無事出勤した。