熊本熊的日常

日常生活についての雑記

予言

2011年04月13日 | Weblog
震災のあと、いつか必ず出てくるとは思っていたが、「震災を予言していた」という記事を発見した。その予言とやらが今年の1月とか2月といった比較的近い時期であるにもかかわらず、震災直後には取り上げられることがなく、生活が少し落ち着いた今時分に登場するのは奇怪なことである。多くの人々が亡くなったり生活を失ったりしているなかで、そうした状況を高みで見物するかの如くの風体で、自分はその災害を予知していた、などとメディアに登場できる神経はただものではない。

世の中は人間の五感だけで感知できるものだけで成り立っているわけではないだろう。その五感にしても、人により個性というものがあるのは確かだ。平均的な人より特定の感覚が特別に鋭かったり鈍かったりする人は当たり前に存在しているし、五感を超えたところの感覚が鋭敏な人がいるのも不思議ではない。そうした能力のなかに未来を予知するという能力があるのも驚くべきことではない。

しかし、現実に災害が発生し、被災する人があるなかで、そうした人を救うこともせずに、事が発生してほとぼりが冷めた頃を見計らうかのように、予知能力を誇示するかの如くにメディアに登場できる人の倫理観や道徳観というものはどのようなものなのだろうか。役に立たないのなら、人を不愉快にするようなことは自分だけのことに留めておくのが社会で生きる上でのたしなみというものではないのか。

登場する本人も怪体だが、それを引っ張り出すメディアの感覚も尋常ではない。視聴率とかページビューさえ稼ぐことができればなりふりかまわぬということでマスメディアが存在することが果たして許されるものなのだろうか。勿論、法的には公序良俗に反しない限り何をしてもよいのだろうが、見せ掛けの良識を振りかざしながら視聴者や読者を愚弄するかのようなコンテンツを垂れ流すというのでは、世間の信用を得られまい。だからこそ、テレビがかつてほどに視聴率を獲得できないのではないか。メディアが多様化したという事情も無関係ではないだろうが、実体は節操がないから信用されないというだけのことだろう。

たびたびこのブログに書いているように私は2007年9月以来テレビを持っていないし、新聞も定期的に読んでいない。今回の震災で改めて確信したのだが、少なくとも現在のような姿のテレビも新聞も日常生活に不要である。大規模な原発が使用不能に陥ったことで電力不足が喧伝されているが、テレビ局の数を半分くらいに減らしたら効果的な節電になるだろう。在京のテレビ局はどこも都心の一等地に巨大な社屋を構えているようだが、店仕舞いをして不用になった局舎を被災した人たちの仮住まいに供するというようなことも「天下の公器」なら考えてもよいのではないか。

ところで、確か阪神淡路の時には地震雲とか言うものが話題になった。今回はまだ見聞きしないが、果たして現れたのであろうか。既に話題になっているのかもしれないが、私はテレビがないのでそういうことに疎い。