熊本熊的日常

日常生活についての雑記

値引考

2011年04月28日 | Weblog
アマゾンで予約しておいたいきものがかりのライブDVDが届いたという連絡があったので、昨夜、仕事帰りに近所のコンビニに寄って受け取った。2枚組みで合計4時間強の内容だったが、明け方までかけて観てしまった。アマゾンの場合、予約時点での販売価格よりもその後の価格が下がった場合は低いほうの価格が約定価格になる。これは、予測需要を基に算出した価格が、その需要の変化に応じて変動するということで、理にかなったものだと思う。

しかし、一般に「セール」とか「在庫処分」とか言う場合の値引きというものについては納得がいかない。クーポン券を利用した割引というのも解せない。わけのわからない理由をつけて「割引」をするくらいなら、何故、誰に対しても最初からその値段で売らないのだろうか。例えば「定価の3割引」というとき、そのものの価値は「定価」で表示されるものなのか、割引後の価格で表示されるものなのか。割り引いて売ることができるものなら、割引前の価格は水増しされたものであり、割引分は不当な利益だったということなのだろうか。「割引」するくらいなら、割引しなくても自信を持って売ることのできる商品やサービスを提供しろ、と言いたい。人を食ったような商売をするくらいなら、そんな卑しいものはやめてしまったほうがよいのではないか。

買うほうも買うほうだ。買い物は必要なものを買うのだから、そのものをよくみて、よく考えて買えばよい。値段を見る前にものを見て、自分のなかで値付けができるようになってから買えばよい。値を付けることができないというのは、必要性が薄いということだろう。値札に比べて高いか安いかということではなく、自分の考えたものに対する高安で喜怒哀楽を感じるようにならなければ、買い物など楽しくないのではないかと思う。

勿論、値引きの遣り取りが生活の中の余裕とか豊かさにも通じるという考え方があるのはわかる。しかし、それは売り手と買い手とが直接面と向かってのことである。不特定多数を対象に「セール」だの「割引」だのと大風呂敷を広げ、それを見て右往左往するのとははわけが違う。目先の数字だけに反応して行動するというのは、パブロフの犬のようなものだろう。