熊本熊的日常

日常生活についての雑記

「再生の朝に ある裁判官の選択 (原題:透析 Judge)」

2011年04月04日 | Weblog
社会とか文明というものの成り立ちを語る作品だと思う。愚直なまでの秩序への盲従と狡猾なまでの欲望への追従の組み合わせこそが我々の生きる場の現実だろう。裁判というと、秩序遵守の典型のような場面を想像しがちだが、法を運用するのも、法によって律せられるのも人間である。そこに関わる人々には当然に個人の欲望があり、時にそれが秩序との間に葛藤を生むことにもなる。秩序が善で欲望が悪というようなことではなしに、そうしたものが渾然一体となっているのが現実の世界というものだ。そうした現実を淡々と描いているのが本作だ。

主人公の裁判官、ティエンは秩序の象徴だ。秩序には背景となる価値観がある。判事というのは与えられた事象に白黒つけるのが仕事であり、その判断はその国家の法に基づく。法すなわち国家としての価値観の表現を社会事象に対して与えていくのである。自動車2台盗んだことに対する刑罰が死刑という法があるなら、その軽重を判断するのではなく、自動車2台を盗んだという事実を確認し、その被害額が3万元という法に明記されている基準額を超えているか否かを確認し、法が定める刑罰を宣告するのが裁判官の務めだ。もし、判決の確定から刑の執行の間に法が改正された場合には、その改正に伴う法執行の適切な修正処置を必要に応じて実行するのも裁判官の役目である。ティエンが死刑執行直前に執行停止を決めたのは、彼の「人間性」の所為ではなく、裁判官としての職業倫理に従ったまでのことだろう。死刑執行命令書の日付は9月29日で、刑の執行は命令の下った日から6日以内ということになっている。映画の舞台である1997年の9月29日は月曜日だ。中国では10月1日が国慶節で祝日なので、その後に執行すべく事務手続きが行われている。ところが、法改正で新法が10月1日付で施行されて旧法が無効となり、改正後の法に従えば被告の量刑は死刑ではなくなる。ティエンがこだわったのは、自動車2台で死刑になるという量刑あるいは判決に対するものではなく、単に法改正に伴う裁判官として執るべき措置の正当さでしかなかったと思う。

ティエンは特に正義感が強いとか帰属組織への忠誠心が強いというようなことではなく、私人としてはどこにでもいそうな普通の人だ。子供を交通事故で亡くしたばかりで、妻はその衝撃から立ち直れないでいる。子供を亡くしたので犬を飼い始めたのか、亡くなる前から飼っていたのかわからないが、無登録で飼っている。それが警察の知るところとなり、犬を捕獲に来た巡査に抵抗して警察に留置されてしまうという、「裁判官」という印象にはそぐわないようなこともする。巡査に抵抗するとき、「私は裁判官だぞ」と凄んでみせるのだが、巡査に「だったら法を守れ」とたしなめられると返す言葉を失ってしまうのもご愛嬌だ。

人の行動の8割が習慣によるものだという話を聞いたことがある。本作のなかに描かれているティエンは、裁判官であるとか夫であるといったこと以前に、普通の人として習慣に身をゆだねているかのように、私には映る。国家や文明といったものの本質は、人の思考や行動の習慣に依存する部分にこそあるのではないかと思うのである。習慣に依存した結果として、どこまで秩序や公正が維持できるのかということが、その社会の質を定義しているのではないだろうか。

この作品のなかで興味を覚えたのは食の扱いである。繰り返し描かれているのはティエンと妻との食卓と囚人の食事風景だ。子供を事故で失った衝撃で、ティエンの妻は無気力になってしまっている。朝と夜はティエンが食事の支度をしている。ご飯とおかず2品という組み合わせは、中国の一般の人々の典型的なものなのだろうか。妻はそれを口にすることもあれば、手をつけないこともある。それでも、ティエンは毎日せっせと作る。1997年の中国にもインスタント食品や出来合いの惣菜はあっただろうに、ティエンは裁判官という仕事を持ちながらも、毎日調理をする。食事の時間だけが、夫婦が顔を合わせる時間でもある。大きな喪失を経て今にも崩壊しそうな家族という関係を、ティエンは食事を作ることによって維持し、そこから関係を再生しようとしているかのようだ。食卓の豊かさというのは、並んでいるおかずの豪華さや手の込み具合によって決まるのではない。食への感謝と、食を共にする相手がいるなら、その関係性に対する想いがどれほどあるのか、ということが肝心なのである。ティエンは職場からの帰りに市場に寄って食材を買い求め、妻のために食事の支度をする。そのことが、なによりも饒舌に彼の妻への想い、家族という関係を守ろうとする意志といったものを表現している。

やがて、時間の経過とともに妻の態度に微妙な変化が現れ始める。きっかけは、先ほど触れた犬の件だ。今にも崩れ落ちてしまいそうな自己を支えていた愛犬が警察に捕獲されそうになったところを夫が身を挺して阻止する姿に何かを感じたのだろう。あるいは、単に夫が警察に連行されてしまって食事の支度を自分でしなければならなくなったという単純な理由なのかもしれないが、久しぶりに妻は台所に立つ。そしてご飯を炊き、おかずを二品作って夫の帰りを待つのである。愛犬は捕獲され、ティエンも警察で絞られ、意気消沈して家に帰る。今度はティエンのほうが食が進まない。そのとき、妻はおかずを自分の箸で取り、ティエンの飯碗に乗せたのである。顔を見合すティエンと妻。なかなか良いシーンだ。やがて、夫婦で台所に立ち、一緒に食事の支度をするようになる。食卓での会話の無さは相変わらずだが、その空気はそれまでの張り詰めたものから温かいものへと変化しているかのようだ。

一方、囚人の食は食事というより給餌だ。食事の時間になると看守が食事を持って各部屋を回る。囚人は自分の食器を差し出してそこにスープをよそってもらう。それに饅頭が付いて一食分だ。一部屋には7・8人もの囚人がいるが、食事の時間を楽しむというような状況ではなく、ただ食欲を満たすためだけに口を動かしているかのようだ。囚人の間に会話などあるはずはない。誰もが一刻も早くそこから抜け出すことしか頭にないのであろう。囚人どうしの人間関係などその場限りのものでしかない。

ティエン夫婦の食卓と囚人の食事とを繰り返し描くことで、食事というものが、人間関係をどれほど饒舌に語るものなのかということを見事に表現していると思う。

関係といえば、ティエンが担当している自動車窃盗事件の犯人の腎臓を欲している企業経営者が登場する。彼は事業に成功し、若く美しい婚約者がいる。彼と婚約者の関係を描くのはベッドのシーンだけで、食事を共にする姿は描かれていない。それは偶然なのかもしれないし意図したものなのかもしれない。しかし、ティエン夫妻とこの実業家とその婚約者という二組の男女の関係を比べたときに、夫婦としての積み重ねた時間があることを勘案しても、崩壊の危機に瀕しているティエン夫妻のほうが好ましい関係に見えてしまう。

臓器売買の話も作品のなかに組み込まれているのだが、正直なところ私には何が問題なのかよくわからない。臓器「提供」が美しい話で、臓器「売買」が社会問題、というようなざっくりとした括りが世の中にあるように感じられるのだが、死ぬ当事者にとってはどちらも同じことだろう。「売買」と言ったって、その金を自分がもらうわけではないのだから、それを果たして「売買」と呼ぶことができるのかどうかも疑問だ。作品中で臓器提供を受ける側の弁護士が臓器提供をする側の死刑囚に契約書の文言を説明する場面で、「『臓器提供』と書いてあるが、金はちゃんとあなたの家族に行くから安心してください」と言っている。これは「提供」も「売買」も行為の実体としては同じだと語っているように見える。

日本でも臓器「提供」はしばしば話題になっている。私の健康保険証は昨年更新されたのだが、新しい保険証の裏面には臓器提供の意思表示ができるようになっている。以下のような文面が印刷されていて、そこに自筆で署名をするようになっているのである。
1. 私は、脳死後及び心臓が停止した死後のいずれでも、移植の為に臓器を提供します。
2. 私は、心臓が停止した死後に限り、移植の為に臓器を提供します。
3. 私は、臓器を提供しません。
この番号に丸をつけて、その下にある署名欄に日付と署名をするようになっている。今のところ、私はどこにも丸をつけていないし、署名をしていない。死亡したら人間ではないだろう。人間でないものに意思があるはずはない。人間でないのだから、生前の意思といえども、その意思は無効だろう。遺言というものが一定の条件を整えていれば有効であることは承知している。しかし、「人間の権利」というときの「人間」とは何なのか、死者とその残された家族との関係、より具体的には死者が生前に持っていた権利と遺族との関係に関する法規と、「人間」に関する法規との間に矛盾があるのかないのか、というようなことがよくわからない。例えば、仮に私が臓器提供を承諾しているとする。私の死後、私の臓器を提供することに私の遺族が反対したとする。そのとき私の臓器はどうなるのか。私が生きていれば、私の臓器は私のものだ。家族が反対しようが私の意思で提供できる。私が死亡した場合の私の臓器の所有者は誰なのか、そもそも存在するのか。私の遺族は何の権利があって私の臓器提供に反対できるのか。死亡したら、私の死体は遺族の所有物ということになるのか。このあたりのことはおいおい調べて考えてみたいと思っている。

他にも、この作品を観て考えたことはいくらでもあるのだが、とりあえずこのくらいにして筆を置く。考えるネタをたくさん提供してくれる作品というのは、観た後の満足感が大きい。こういう作品を作る人たちがいる中国という国は、いろいろな意味で大きな国だと思う。