立川に小三治の独演会を聴きにでかけた後、中央線、武蔵野線、埼京線を乗り継いで実家に立ち寄ってから、渋谷に出て映画「紙風船」を観てきた。
独演会のほうは、総領弟子の〆治が「お菊の皿」で開口一番、小三治がいつものように長いマクラの後に「金明竹」、中入りを挟んで「付き馬」を口演。どれひとつ取っても、それだけで満足のいくものだったが、やはり圧巻はトリの「付き馬」だろう。これは噺としては、吉原で遊んでその代金を踏み倒すという、決して愉快なものではない。それを楽しい噺として演じることができるのは、ひとえに噺家の力量にかかっている。舞台装置の無い落語においては、端から仕舞まで無駄な時間というのは一秒たりとも無いのだが、この噺に関してはサゲに至る最後の数分間がクライマックスと言える。
噺では、吉原で遊んで食い倒そうとする客が、金のあてがあるといって店を出る。店は取りっぱぐれてはいけないので若衆をつける。客のほうは端から食い倒すつもりなので、歩きながらあれこれ算段を考えている。そこで棺桶屋が目に入る。若衆には自分の叔父が棺桶屋だと偽って、その店の前の少し離れたところに若衆を待たせて店に入る。店では、外にいる若衆の兄が腫れ病で亡くなったと嘘をついて、その棺桶の注文をする。話がついたところで若衆を呼び寄せ、自分は外に出てしまう。若衆はその「叔父さん」が金をつくってくれるものと思い込んで話をし、棺桶屋は棺桶をつくるものと思い込んで話をする。もちろん、最後には自分たちが騙されたとわかるのだが、会話の最初のほうは妙にやりとりが続いてしまうのである。
落語だということをわかっていて聴いているから笑い話になるのだが、我々の現実の生活のなかには、それと気付くか気付かないかは別にして、似たようなことが案外多いのではないだろうか。選挙公約を「公」に表明した「約束」だと思い込んでいる人と、「公」に表明した方便を「要約」したものだと思っている人との間で、合意ができて候補者が当選したりするというのもそのひとつだろう。もっと些細なことに至っては枚挙に暇がないほどではないか。実は生活を構成しているのはそうした誤解のほうが多いくらいなのではないか。
この噺を聴いた後で観た所為か、映画「紙風船」もそういう誤解の話に見えてしまう。「紙風船」は東京芸大の院生が制作したもので、4つの短編から成るオムニバス形式の作品だ。「紙風船」はその4番目の作品のタイトルで、結婚1年目の夫婦のとある日曜日の風景を描いたもの。結婚という新しい生活に入って様々なぎくしゃく感が静かに増幅されてくる頃合だ。結婚という形に行き着くのは良縁であることが多いのだろうが、なかには結婚してから重大な誤解に気づく場合もある。しかし、おそらくそういうことは少なくて、多くの場合は些細な誤解が散りばめられているような気がする。この作品で描かれている夫婦の場合には、なんとなく互いにそれぞれの家庭像あるいは夫婦像というようなステレオタイプ的なイメージがあって、それと現実とのギャップに違和感を覚えているというような雰囲気が漂っている。その違和感の原因をコミュニケーションの欠如に帰しているかのような台詞や態度があるのだが、それは現実の夫婦によくあることで、ほんとうの原因ではないだろう。コミュニケーションというのは相手に伝えたいことがあり、それはすべて言語化できる、という前提で使われることであるように思う。しかし、人と人とのやりとりのなかで、そうはっきりした形を結んでいることは、むしろ少ないのではないだろうか。
社会生活は言語化されたもので進行する。例えば法律であったり契約であったり、我々が意識するとしないとにかかわらず、社会生活は言語によって構成されている。しかし、人としての感覚は非言語的要素を多分に含む。その非言語的要素を共有、共有できないまでも共存、それが無理でも黙認できる相手がいて、初めて夫婦とか家庭という親しい関係が成立するのである。勝手に作り上げた「夫婦」とか「家庭」というステレオタイプ、即ち言語化された世界を模範として、現実をそこに合わせようとすると、そこに葛藤や対立が生じるのは当然のことだ。言語そのものが人によって微妙に違うということを別にしても、そのステレオタイプはその人だけのものであって、他人には他人のステレオタイプがあるからだ。結婚を考える相手がいるとして、なぜその相手なのかということを饒舌に語ることができるなら、相手がどのような人間であるかということを見るまでもなく、その結婚は破綻に終わるだろう。相手に対する誤解以前に、その人は言語というもの、人間というものを誤解しているからだ。そういう性向の強い人は、誰が相手であっても、結婚は無理なのである。
映画は「紙風船」のほかに「あの星はいつ現はれるか」「命を弄ぶ男ふたり」「秘密の代償」の3篇で構成されている。それぞれテーストが違うが、同じものを登場人物それぞれの目線で違ったように見ているという点では、誤解を描いているとも言えるだろう。「誤解」というと、それを修正しなければならないかのような印象を受けるのだが、ひとつひとつの誤解を全て解消することなどできるはずもない。そもそも物事の理解の仕方というのは一様ではないことのほうが多いのだから、何が誤解で何が正解なのかなど決めることのできることのほうが少ない。人の生活というものは、誤解を誤解として理解すること、誤解をまるごと受容することで豊かになるものではないだろうか。
参考:柳家小三治独演会
会場 アミューたちかわ
演目 「お菊の皿」〆治
「金明竹」小三治
(中入り)
「付け馬」小三治
開演 14時00分
閉演 17時00分
「紙風船」
「あの星はいつ現はれるか」 監督 廣原暁
「命を弄ぶ男ふたり」 監督 眞田康平
「秘密の代償」 監督 吉川諒
「紙風船」 監督 秋野翔一
原作 岸田國士
会場 ユーロスペース
開演 21時00分
閉演 23時00分
独演会のほうは、総領弟子の〆治が「お菊の皿」で開口一番、小三治がいつものように長いマクラの後に「金明竹」、中入りを挟んで「付き馬」を口演。どれひとつ取っても、それだけで満足のいくものだったが、やはり圧巻はトリの「付き馬」だろう。これは噺としては、吉原で遊んでその代金を踏み倒すという、決して愉快なものではない。それを楽しい噺として演じることができるのは、ひとえに噺家の力量にかかっている。舞台装置の無い落語においては、端から仕舞まで無駄な時間というのは一秒たりとも無いのだが、この噺に関してはサゲに至る最後の数分間がクライマックスと言える。
噺では、吉原で遊んで食い倒そうとする客が、金のあてがあるといって店を出る。店は取りっぱぐれてはいけないので若衆をつける。客のほうは端から食い倒すつもりなので、歩きながらあれこれ算段を考えている。そこで棺桶屋が目に入る。若衆には自分の叔父が棺桶屋だと偽って、その店の前の少し離れたところに若衆を待たせて店に入る。店では、外にいる若衆の兄が腫れ病で亡くなったと嘘をついて、その棺桶の注文をする。話がついたところで若衆を呼び寄せ、自分は外に出てしまう。若衆はその「叔父さん」が金をつくってくれるものと思い込んで話をし、棺桶屋は棺桶をつくるものと思い込んで話をする。もちろん、最後には自分たちが騙されたとわかるのだが、会話の最初のほうは妙にやりとりが続いてしまうのである。
落語だということをわかっていて聴いているから笑い話になるのだが、我々の現実の生活のなかには、それと気付くか気付かないかは別にして、似たようなことが案外多いのではないだろうか。選挙公約を「公」に表明した「約束」だと思い込んでいる人と、「公」に表明した方便を「要約」したものだと思っている人との間で、合意ができて候補者が当選したりするというのもそのひとつだろう。もっと些細なことに至っては枚挙に暇がないほどではないか。実は生活を構成しているのはそうした誤解のほうが多いくらいなのではないか。
この噺を聴いた後で観た所為か、映画「紙風船」もそういう誤解の話に見えてしまう。「紙風船」は東京芸大の院生が制作したもので、4つの短編から成るオムニバス形式の作品だ。「紙風船」はその4番目の作品のタイトルで、結婚1年目の夫婦のとある日曜日の風景を描いたもの。結婚という新しい生活に入って様々なぎくしゃく感が静かに増幅されてくる頃合だ。結婚という形に行き着くのは良縁であることが多いのだろうが、なかには結婚してから重大な誤解に気づく場合もある。しかし、おそらくそういうことは少なくて、多くの場合は些細な誤解が散りばめられているような気がする。この作品で描かれている夫婦の場合には、なんとなく互いにそれぞれの家庭像あるいは夫婦像というようなステレオタイプ的なイメージがあって、それと現実とのギャップに違和感を覚えているというような雰囲気が漂っている。その違和感の原因をコミュニケーションの欠如に帰しているかのような台詞や態度があるのだが、それは現実の夫婦によくあることで、ほんとうの原因ではないだろう。コミュニケーションというのは相手に伝えたいことがあり、それはすべて言語化できる、という前提で使われることであるように思う。しかし、人と人とのやりとりのなかで、そうはっきりした形を結んでいることは、むしろ少ないのではないだろうか。
社会生活は言語化されたもので進行する。例えば法律であったり契約であったり、我々が意識するとしないとにかかわらず、社会生活は言語によって構成されている。しかし、人としての感覚は非言語的要素を多分に含む。その非言語的要素を共有、共有できないまでも共存、それが無理でも黙認できる相手がいて、初めて夫婦とか家庭という親しい関係が成立するのである。勝手に作り上げた「夫婦」とか「家庭」というステレオタイプ、即ち言語化された世界を模範として、現実をそこに合わせようとすると、そこに葛藤や対立が生じるのは当然のことだ。言語そのものが人によって微妙に違うということを別にしても、そのステレオタイプはその人だけのものであって、他人には他人のステレオタイプがあるからだ。結婚を考える相手がいるとして、なぜその相手なのかということを饒舌に語ることができるなら、相手がどのような人間であるかということを見るまでもなく、その結婚は破綻に終わるだろう。相手に対する誤解以前に、その人は言語というもの、人間というものを誤解しているからだ。そういう性向の強い人は、誰が相手であっても、結婚は無理なのである。
映画は「紙風船」のほかに「あの星はいつ現はれるか」「命を弄ぶ男ふたり」「秘密の代償」の3篇で構成されている。それぞれテーストが違うが、同じものを登場人物それぞれの目線で違ったように見ているという点では、誤解を描いているとも言えるだろう。「誤解」というと、それを修正しなければならないかのような印象を受けるのだが、ひとつひとつの誤解を全て解消することなどできるはずもない。そもそも物事の理解の仕方というのは一様ではないことのほうが多いのだから、何が誤解で何が正解なのかなど決めることのできることのほうが少ない。人の生活というものは、誤解を誤解として理解すること、誤解をまるごと受容することで豊かになるものではないだろうか。
参考:柳家小三治独演会
会場 アミューたちかわ
演目 「お菊の皿」〆治
「金明竹」小三治
(中入り)
「付け馬」小三治
開演 14時00分
閉演 17時00分
「紙風船」
「あの星はいつ現はれるか」 監督 廣原暁
「命を弄ぶ男ふたり」 監督 眞田康平
「秘密の代償」 監督 吉川諒
「紙風船」 監督 秋野翔一
原作 岸田國士
会場 ユーロスペース
開演 21時00分
閉演 23時00分